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【掌編】齊藤想『ハルピンの冬空』 [自作ショートショート]

第28回ゆきのまち幻想文学賞に応募した作品です。
テーマは毎年同じで「雪の幻想性」です。

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 『ハルピンの冬空』 齊藤 想

 これは、八十五歳で死去した私の祖父から聞いた話です。
 祖父が若いころ、戦争の黒雲が日本全土を覆っていました。祖父は山間の田舎で鍬を振るう農家の後取りでしたが、戦況の悪化とともに赤紙が配達され、三ヶ月の即席訓練だけで戦地に送られました。軍服を着せられただけのお人形さんのような兵士です。鉄砲すらろくに撃てません。
 兵士としては使い物にならないと自覚していた祖父の派遣先は、満州国のハルピンでした。満州国とは旧日本軍が中国の北東部を占領して作った国です。ハルピンは満州国のはずれにあり、ロシア……当時はソビエト連邦共和国でしたが……の国境近くに位置した辺境の街でした。
 ハルピンは寒さの厳しい町です。口から出た言葉はその場で凍りつくような、静謐に包まれた小都市です。
 戦況が悪化していたといっても、それは太平洋の話で、満州国では平和な日々が続いていました。祖父の仕事は補給基地の警備です。歩哨として三交代で周囲を見張り、仕事が終わると食事をして寝るだけの、比較的暇な部隊でした。
 街に出ることも認められていました。
 戦争中とはいえ、満州国からすれば銃火ははるか遠方の出来事です。ハルピンでは何も変わらない日常が続いていました。コメは取れませんでしたが、周辺が農耕地ということもあり、イモ類を中心とする食糧事情にも恵まれていました。
 戦友は同じ境遇の若者ばかりです。暇を持て余し、食事にも満足となると、興味は自然と女性へと向かいます。
 当時の祖父は独身で、お付き合いをしている女性はいませんでした。若者は兵士に取られ、日本全土で男性が不足していましたが、それでも祖父の出身地である山間の農村は嫁不足に悩まされていました。
 新聞は連日大勝利としか報じません。祖父の両親は戦況がひっ迫していることを知らなかったばかりにのんきなもので「外地で嫁を貰ってこい」と旗を振って祖父を送り出していました。
 都市部では食糧不足が深刻化していましたが、まともな道路も通っていない世間と隔絶したような農村では、江戸時代とさほど変わらない生活が続いていたのです。
 ”兵隊”という仕事に慣れると、祖父は「いいところにきた」と思いました。鉄砲を撃つことも無ければ、砲弾の中を逃げ回る必要もありません。飯も食べ放題です。
 外出許可がでると、祖父は戦友とバンザイ突撃のように女性を求めて街へ繰り出していきました。”女性”という慣れない相手を前に戦友たちは次々と玉砕したのですが、祖父は書店の店員をしていた同世代の女性と恋仲になることができました。
 季節は真冬でした。彼女の肌は、透き通るような白さだったそうです。その色は、満州の霜を思い起こさせました。
 彼女の両親は中国人で、戦乱の続く中国本土を避けて満州国に移住したそうです。両親は中国本土で高度な教育を受けていたことから、少しでも住民の知識欲に応えようと書店を開いたそうです。
 彼女の日本語はたどたどしく、会話に不都合を感じるほどだったそうです。祖父は辞書を片手に中国語の勉強を始めました。
 恋の力は偉大です。
 彼女の両親は日本人と付き合うことにあまりいい思いはしなかったそうですが、二人の気持ちが曲がることはありませんでした。戦友たちも、祖父が本気と知ると、逆に心配するようになりました。
 障害があるほど恋は燃え上がります。周囲の懸念をよそに二人の気持ちは高まるばかりです。あげくの果てに、祖父は彼女に見回りに出る時間を教えて、お互いに合図を決めて手を振り合うことまでしていました。
 見回り時間を教えることは、重大な隊規違反です。敵に知られたら、補給基地を襲われるかもしれません。命の危険もあります。
 しかし、祖父は彼女と会いたい一心で、時間を教え続けました。
 見回りは二人でチームを組みます。祖父とペアを組んだのは、教師をしていたという真面目な中年男性でした。彼の名前は前川といいます。祖父も隊規違反であることを認識していたので、前川には「偶然だよ」と言い続けました。
 見え透いたウソがいつまでも通じるわけがありません。
 前川が上官に報告することだけはなかったものの、祖父は居心地の悪い思いを続けていました。危険は承知していました。それでも我慢できず、一瞬の会合を続けてたです。
 彼女に異変が起きました。真冬には活発だった彼女が、季節が移るにつれてふさぎ込むようになったのです。元気が抜けていくような感じです。祖父は彼女の体調を心配しました。彼女は力なく首を横に振るだけです。
 恋人に心配をかけまいと健気に振る舞う彼女を見て、祖父が彼女のことを思う気持ちはますます強くなりました。
 交際から半年が過ぎたころです。
 季節は初夏に差し掛かりました。一日中強風が吹きつける夜です。
 いつものように、祖父は見回り中に彼女の姿を見つけました。暗がりでも彼女のことを見間違えることはありません。前川は何も言いません。教育者らしく、民心掌握に必要とか、自分なりの理屈を築き上げているのかもしれません。
 しかし、その日に限り、彼女の様子が異なっていました。近づいてはならない補給基地にどんどん近づいてくるのです。
 前川は祖父のわき腹をつつきました。隊規だと、まず警告を発し、それでも進んでくるときは射殺しなければなりません。
 後方とはいえ、ここは戦場です。太平洋方面における戦況の悪化は満州にまで伝わってきました。「いつ匪賊に襲われるのか分からないので厳に警戒するように」との訓令を毎日のように聞かされています。彼女にも安易に近づいたら射殺されると伝えてあります。
 撃たなければ、こっちが撃たれる。それが戦場の現実でした。
 前川の顔は、明かにこわばっています。中国軍には便衣兵がいます。軍服を脱がして市民を装い接近し、日本軍を撃つ卑劣な作戦です。これは国際法違反なのですが、中国軍は守るつもりがないようです。
 補給基地にいるのは素人の兵隊ばかりです。だれもが疑心暗鬼に襲われていました。
 前川が日本語で叫び、銃口を彼女に向けました。撃鉄を上げる不気味な音がしました。
「ちょっと待て。日本語が通じないだけかもしれないじゃないか」
 祖父は叫ぶと、現地の言葉で彼女に呼びかけました。祖父は混乱していました。彼女には隊のルールを知らせています。補給基地に向って歩くなと言い続けてきました。疑われると、撃たれる恐れがある。君を失ったらぼくは生きていけない。
 そこまで話していたのにも関わらず、彼女は近づいてきます。幻影ではないか、まぼろしではないか、何度もそう思いました。
 彼女は祖父の説得を無視して、歩いてきます。何かを叫んでいますが、風が耳元を切る音で、彼女の声は全てかき消されてしまいました。
 一発の銃声が響きました。
 祖父の初恋は突如として終わりを告げました。彼女の体は空気の抜けた風船のように崩れ落ちました。
 祖父は彼女の元に駆け寄りました。しかし、彼女の姿は忽然と消えていました。彼女の両親が経営する書店にも向かいましたが、すでに更地となり、夏草がなびいていました。
 その夜から、彼女の姿を見ることは二度とありませんでした。

 祖父は悲嘆にくれました。
 数日して、国境線のソ連軍の動きが怪しいという情報が入りました。偵察部隊の募集があり、祖父は真っ先に手を上げました。
 もうそのころには戦況の悪化は隠しようがなくなっていました。祖父は前線に出て戦死するつもりでした。彼女の後を追おうとしました。
 祖父は中年の少尉に率いられた僅かな兵士とともに前線に出ました。そこがたまたま進撃するソ連軍の隙間で、背中に担いだ銃を発砲する間もなく、戦争は終わりました。少し前まで祖父がいた補給基地は全滅し、前川もそこで戦死したそうです。
 祖父はシベリアに抑留されたものの幸いにも生き延び、故郷に戻ることができました。先祖代々の家業である農家を継ぎ、再開した同級生と結婚し、子供も生まれ、孫として私もこの世に生を受けました。
 祖父は、彼女の正体はソ連軍のスパイだっと信じていました。日本軍の情報を取るために近づいたものの本気で恋をしてしまい、ソ連軍の侵攻を警告するために補給基地に近づいたのではないかと。
 そして、彼女は撃たれた。
 死体が見つからないのは、スパイ仲間が処分したに違いない。そう推理しました。
 しかし、私は思うのです。
 祖父が恋した相手は雪女だったのではないか。雪女は夏には消えてしまいます。自らが消える前に、愛する祖父を救うために、あのような行動を取ったのではないかと。
 いまごろ、祖父は天国で雪女と楽しい生活を送っていることでしょう。祖母が遅れてやってきたときに、二人の関係がどうなるかはわかりませんが。

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