【掌編】齊藤想『約束の場所』 [自作ショートショート]
第3回小説でもどうぞW選考委員版に応募した作品です。
テーマは「約束」です。
―――――
『約束の場所』 齊藤 想
義雄は壊れかけた膝をいたわりながら、母校である小学校の裏山を目指した。
なぜ、ミヨとあんな約束をしてしまったのだろうか。というより、75年前の約束を守る自分が律儀すぎるのか。
義雄の記憶は、ミヨと約束を交わした小学五年生の冬に戻っていく。
その年、世間はハレー彗星の75年ぶりの再来に沸きあがっていた。その熱気は小学生を夢中にさせ、当時流行していたノストラダムスの大予言を完全に吹き飛ばした。
「みんなで一緒に学校の裏山でハレー彗星を見よう!」というのは子供たちにとって恰好の夜遊びの理由であり、親を説得する最良の材料ともなった。
クラスの有志で裏山に集まったのだが、その日はあいにくの曇りだった。
同級生たちは、ハレー彗星そっちのけで、夜の裏山で遊びまわっている。
裏山が騒がしくなるなか、ひとりで静かに座っていたのがミヨだった。
少し病弱な女の子で、体育はいつも見学していた。小学校も休みがちだった。極端に無口で、声を聞いたことのある同級生はほとんどいない。
そして、ミヨは義雄がひそかにあこがれていた女子でもあった。
義雄は、病弱なミヨが裏山まできたことに意外な思いがした。ミヨはダブダブのダッフルコートをはおり、夜空を見上げている。
息がとても白かった。ミヨの横顔は、まるでこの世の生き物ではないかのように、色を失っていた。
義雄はミヨに近づいた。こういう特別な時でない限り、近づけない気がしていた。
義雄は、できるだけ自然な様子で、ミヨに話しかけた。同級生たちの騒ぎ声が、ふっと、遠くなる。
「よくご両親が許してくれたね」
ミヨは驚いたように、顔を少し上げた。思わぬ目線に義雄の心臓が高鳴る。義雄はごまかすように、曇り空を睨みつけた。
「75年に一度なのに、曇るなんて最悪だよな。次にハレー彗星がくるときには、二人はおじいちゃんとおばあちゃんだ」
義雄は明るく笑ったが、ミヨは寂しそうに軽く首を横に振った。たぶん、それまで生きられない、という意味なのだろう。
今夜、外にでることを両親が許したのも、そういうことなのかもしれない。
義雄は、嫌な予感を振り払うように、大きくかぶりを振った。そして、小指をミヨの鼻先に差し出した。
「指切りげんまんの約束は絶対なんだ。だから、75年後に一緒に見る約束をしよう。もっとも、ぼくが約束を忘れなければだけど」
彼女のほほが少し緩んだ。
「そうだな。75年後に、あの木の下で、今日と同じ時間で」
ミヨの首が縦に動いた気がした。そして、氷のような指が、義雄の指に絡まった。
一か月後、ミヨは転校した。大きな病院と入院するとの噂もあったが、大人たちは口を閉ざしたので本当のところは分からない。
そして、75年がたった。
少子化の波が襲う中、小学校は辛うじて維持されていた。予算不足から建て直しはできず、醜い耐震化補強と塗り替えだけでお茶を濁されているようだ。
小学校の裏山もそのままだった。この周辺は開発の波から取り残されており、いまや静かな片田舎だ。
義雄は歩みを進めるたびに、小学校時代を思い出した。家族一緒で楽しかった運動会。冷たかった学校のプール。同級生たちと栗拾いをした裏山。
全てが遠い昔のことだ。義雄が死ねば、他愛のない思い出はこの世から消え去る。
約束の木は、まだあった。形もほとんど変わっていない。
義雄が腰を下ろしたとき、木の根元に長方形の石が立っていることに気が付いた。
明らかに人工物だ。
義雄は石の表面にこびりついた泥を取り除いた。すると、そこにはくっきりと、名前が書かれていた。
「今橋ミヨ」
名前以外には何も書いていない。石は何も語らない。
ああそうか、と義雄は思った。ミヨが生きているかどうかは分からないけど、約束を守るために、誰かに頼んで名前を刻んだ石を置いてもらったのだ。
「今日は晴れるといいなあ。さすがに次の75年後はしんどいからなあ」
義雄はひとりで笑った。きっと、ミヨがいたら一緒にほほえんでくれただろう。
義雄は空を見上げた。約束の時間まで、あと三時間。
―――――
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テーマは「約束」です。
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『約束の場所』 齊藤 想
義雄は壊れかけた膝をいたわりながら、母校である小学校の裏山を目指した。
なぜ、ミヨとあんな約束をしてしまったのだろうか。というより、75年前の約束を守る自分が律儀すぎるのか。
義雄の記憶は、ミヨと約束を交わした小学五年生の冬に戻っていく。
その年、世間はハレー彗星の75年ぶりの再来に沸きあがっていた。その熱気は小学生を夢中にさせ、当時流行していたノストラダムスの大予言を完全に吹き飛ばした。
「みんなで一緒に学校の裏山でハレー彗星を見よう!」というのは子供たちにとって恰好の夜遊びの理由であり、親を説得する最良の材料ともなった。
クラスの有志で裏山に集まったのだが、その日はあいにくの曇りだった。
同級生たちは、ハレー彗星そっちのけで、夜の裏山で遊びまわっている。
裏山が騒がしくなるなか、ひとりで静かに座っていたのがミヨだった。
少し病弱な女の子で、体育はいつも見学していた。小学校も休みがちだった。極端に無口で、声を聞いたことのある同級生はほとんどいない。
そして、ミヨは義雄がひそかにあこがれていた女子でもあった。
義雄は、病弱なミヨが裏山まできたことに意外な思いがした。ミヨはダブダブのダッフルコートをはおり、夜空を見上げている。
息がとても白かった。ミヨの横顔は、まるでこの世の生き物ではないかのように、色を失っていた。
義雄はミヨに近づいた。こういう特別な時でない限り、近づけない気がしていた。
義雄は、できるだけ自然な様子で、ミヨに話しかけた。同級生たちの騒ぎ声が、ふっと、遠くなる。
「よくご両親が許してくれたね」
ミヨは驚いたように、顔を少し上げた。思わぬ目線に義雄の心臓が高鳴る。義雄はごまかすように、曇り空を睨みつけた。
「75年に一度なのに、曇るなんて最悪だよな。次にハレー彗星がくるときには、二人はおじいちゃんとおばあちゃんだ」
義雄は明るく笑ったが、ミヨは寂しそうに軽く首を横に振った。たぶん、それまで生きられない、という意味なのだろう。
今夜、外にでることを両親が許したのも、そういうことなのかもしれない。
義雄は、嫌な予感を振り払うように、大きくかぶりを振った。そして、小指をミヨの鼻先に差し出した。
「指切りげんまんの約束は絶対なんだ。だから、75年後に一緒に見る約束をしよう。もっとも、ぼくが約束を忘れなければだけど」
彼女のほほが少し緩んだ。
「そうだな。75年後に、あの木の下で、今日と同じ時間で」
ミヨの首が縦に動いた気がした。そして、氷のような指が、義雄の指に絡まった。
一か月後、ミヨは転校した。大きな病院と入院するとの噂もあったが、大人たちは口を閉ざしたので本当のところは分からない。
そして、75年がたった。
少子化の波が襲う中、小学校は辛うじて維持されていた。予算不足から建て直しはできず、醜い耐震化補強と塗り替えだけでお茶を濁されているようだ。
小学校の裏山もそのままだった。この周辺は開発の波から取り残されており、いまや静かな片田舎だ。
義雄は歩みを進めるたびに、小学校時代を思い出した。家族一緒で楽しかった運動会。冷たかった学校のプール。同級生たちと栗拾いをした裏山。
全てが遠い昔のことだ。義雄が死ねば、他愛のない思い出はこの世から消え去る。
約束の木は、まだあった。形もほとんど変わっていない。
義雄が腰を下ろしたとき、木の根元に長方形の石が立っていることに気が付いた。
明らかに人工物だ。
義雄は石の表面にこびりついた泥を取り除いた。すると、そこにはくっきりと、名前が書かれていた。
「今橋ミヨ」
名前以外には何も書いていない。石は何も語らない。
ああそうか、と義雄は思った。ミヨが生きているかどうかは分からないけど、約束を守るために、誰かに頼んで名前を刻んだ石を置いてもらったのだ。
「今日は晴れるといいなあ。さすがに次の75年後はしんどいからなあ」
義雄はひとりで笑った。きっと、ミヨがいたら一緒にほほえんでくれただろう。
義雄は空を見上げた。約束の時間まで、あと三時間。
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【SS】齊藤想『ヒーローの流儀』 [自作ショートショート]
第16回小説でもどうぞに応募した作品その2です。
テーマは「遊び」でした。
―――――
『ヒーローの流儀』 齊藤 想
日曜日の朝9時。我らがレッドが、公園の滑り台のてっぺんで、こぶしを青空に向かって突き上げた。
「ヒーローは遊びじゃないんだ」
公園にいるのは、メンバーであるブルー、グリーン、イエロー、ピンクと、たまたま遊びに来ていた幼児と母親。幼児はすべり台のてっぺんにいるレッドを指さそうとして、母親にたしなめられる。
「ヒーローたるもの、地域の平和と安全を守るだけではなく、市民の模範となり、だれからも愛される存在ではなくてはならない。ではパトロールに出発するぞ!」
「アイアイサー」
ブルー、グリーン、イエロー、ピンクが敬礼と同時に踵をならした。少し遅れて幼児が真似をしようとして、母親に止められる。
メンバーはそれぞれの愛機、チャリ1号から5号に乗り込んだ。もちろん、それぞれのシンボルカラーにデコレーションされている。
ヒーローたるもの交通ルールは遵守。ヘルメットを被り、歩道ではなく車道の端をゆっくりと走る。自転車は軽車両なのだ。
登り坂は無理をせず、下車して愛機を押して歩く。
少し太めのグリーンがへばり始めたころ、少女の叫び声が聞こえた。
2人の少女がボールを奪い合っている。争っている二人の手からボールが離れ、車道へと転がる。
「危ない!」
レッドが全力で愛機を走らせる。車道に飛び出す寸前でボールを拾い上げる。
駆け寄る二人の少女に、レッドが愛の雷を下ろす。
「道路で遊んだら危ないじゃないか。近くの公園か、学校で遊びなさい」
しかられた二人の少女は涙目になる。こういうときは、ピンクの出番だ。膝を折り、落ち込んでいる少女たちに目線を合わせて、優しく諭す。
「二人がケガをしたら、パパやママが悲しむでしょ。親というものはね、子供が痛い思いをすると、それ以上に心が痛むものなの」
二人が素直に首を縦に振る。ここで盛り上げるのはイエローの役目だ。
「さてさて、お兄さんも一緒に遊ぼうかな。こう見えてもバスケットがうまいんだぞ」
イエローが自信満々にドリブルを始めようとするが、なぜかボールが体と反対の方向に飛んでいく。
「イエローは口だけだなあ」
と突っ込みをいれる役目はグリーン。場が和んだころに、ブルーが冷静に告げる。
「あそこにシャドウ団がいる」
メンバーが一斉に車道を見る。そこに、黒いコスチュームに身を包んだシャドウ団がいる。もちろん悪役だ。領袖であるMrシャドウを中心に、四人の手下が控えている。
Mrシャドウが勝ち誇ったような高笑いをあげる。
「ハハハ、このボールはいただいた」
いつのまにかに、Mrシャドウの手にボールがある。
「車道にシャドウ団が」とイエローがどうでもいいことを口にする。ボールを奪われた 少女が涙目になる。
ここで負けたらヒーローではない。レッドがメンバーに声をかける。
「いいか、全力でボールを、いや少女の笑顔を取り戻すのだ」
シャドウ団は瞬く間にヒーローたちに駆逐され、Mrシャドウと手下たちは逃げ出した。
「はい、どうぞ」
ピンクが少女にボールを渡すと、少女ははにかんだ。
こうして、町の平和と少女の笑顔は取り戻された。
家に帰ると、レッドは長年連れ添った妻にこっぴどく怒られた。いい加減、ヒーローごっこはやめてくれ。年齢を考えてくれ。
レッドはコスチュームを脱ぎ、体中に湿布を貼る。おそらく他のメンバーも、シャドウ団も同じだろう。
「これは遊びじゃないんだ」
そう言っても、妻は信じない。
最初は他愛のない街おこしだった。ご当地ヒーローを作りキャンペーンを続けているうちに、実際に活動することとなり、さらに妙な人気が出たあげくに、マニアが撮影して動画としてUPするようになった。
空想のヒーローが本物になり、いつしか生きがいになった。
ヒーローも悪役も体力を使うので健康にもよい。地域との触れ合いもできる。なりより、インターネットを通じて、世界のどこかで楽しんでくれるひとがいる。
来週の日曜日も、ヒーローとシャドウ団は
、遊びではない戦いを繰り広げている。
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テーマは「遊び」でした。
―――――
『ヒーローの流儀』 齊藤 想
日曜日の朝9時。我らがレッドが、公園の滑り台のてっぺんで、こぶしを青空に向かって突き上げた。
「ヒーローは遊びじゃないんだ」
公園にいるのは、メンバーであるブルー、グリーン、イエロー、ピンクと、たまたま遊びに来ていた幼児と母親。幼児はすべり台のてっぺんにいるレッドを指さそうとして、母親にたしなめられる。
「ヒーローたるもの、地域の平和と安全を守るだけではなく、市民の模範となり、だれからも愛される存在ではなくてはならない。ではパトロールに出発するぞ!」
「アイアイサー」
ブルー、グリーン、イエロー、ピンクが敬礼と同時に踵をならした。少し遅れて幼児が真似をしようとして、母親に止められる。
メンバーはそれぞれの愛機、チャリ1号から5号に乗り込んだ。もちろん、それぞれのシンボルカラーにデコレーションされている。
ヒーローたるもの交通ルールは遵守。ヘルメットを被り、歩道ではなく車道の端をゆっくりと走る。自転車は軽車両なのだ。
登り坂は無理をせず、下車して愛機を押して歩く。
少し太めのグリーンがへばり始めたころ、少女の叫び声が聞こえた。
2人の少女がボールを奪い合っている。争っている二人の手からボールが離れ、車道へと転がる。
「危ない!」
レッドが全力で愛機を走らせる。車道に飛び出す寸前でボールを拾い上げる。
駆け寄る二人の少女に、レッドが愛の雷を下ろす。
「道路で遊んだら危ないじゃないか。近くの公園か、学校で遊びなさい」
しかられた二人の少女は涙目になる。こういうときは、ピンクの出番だ。膝を折り、落ち込んでいる少女たちに目線を合わせて、優しく諭す。
「二人がケガをしたら、パパやママが悲しむでしょ。親というものはね、子供が痛い思いをすると、それ以上に心が痛むものなの」
二人が素直に首を縦に振る。ここで盛り上げるのはイエローの役目だ。
「さてさて、お兄さんも一緒に遊ぼうかな。こう見えてもバスケットがうまいんだぞ」
イエローが自信満々にドリブルを始めようとするが、なぜかボールが体と反対の方向に飛んでいく。
「イエローは口だけだなあ」
と突っ込みをいれる役目はグリーン。場が和んだころに、ブルーが冷静に告げる。
「あそこにシャドウ団がいる」
メンバーが一斉に車道を見る。そこに、黒いコスチュームに身を包んだシャドウ団がいる。もちろん悪役だ。領袖であるMrシャドウを中心に、四人の手下が控えている。
Mrシャドウが勝ち誇ったような高笑いをあげる。
「ハハハ、このボールはいただいた」
いつのまにかに、Mrシャドウの手にボールがある。
「車道にシャドウ団が」とイエローがどうでもいいことを口にする。ボールを奪われた 少女が涙目になる。
ここで負けたらヒーローではない。レッドがメンバーに声をかける。
「いいか、全力でボールを、いや少女の笑顔を取り戻すのだ」
シャドウ団は瞬く間にヒーローたちに駆逐され、Mrシャドウと手下たちは逃げ出した。
「はい、どうぞ」
ピンクが少女にボールを渡すと、少女ははにかんだ。
こうして、町の平和と少女の笑顔は取り戻された。
家に帰ると、レッドは長年連れ添った妻にこっぴどく怒られた。いい加減、ヒーローごっこはやめてくれ。年齢を考えてくれ。
レッドはコスチュームを脱ぎ、体中に湿布を貼る。おそらく他のメンバーも、シャドウ団も同じだろう。
「これは遊びじゃないんだ」
そう言っても、妻は信じない。
最初は他愛のない街おこしだった。ご当地ヒーローを作りキャンペーンを続けているうちに、実際に活動することとなり、さらに妙な人気が出たあげくに、マニアが撮影して動画としてUPするようになった。
空想のヒーローが本物になり、いつしか生きがいになった。
ヒーローも悪役も体力を使うので健康にもよい。地域との触れ合いもできる。なりより、インターネットを通じて、世界のどこかで楽しんでくれるひとがいる。
来週の日曜日も、ヒーローとシャドウ団は
、遊びではない戦いを繰り広げている。
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【掌編】齊藤想『これは遊びではない』 [自作ショートショート]
第16回小説でもどうぞに応募した作品その1です。
テーマは「遊び」でした。
―――――
『これは遊びではない』 齊藤 想
「これは遊びではないんだ」とゲング隊長は部下達を叱咤した。
ジリのモニターに映るのは、ドローンのカメラに捉えられた敵軍の兵士。敵は迷彩服に身を包み、タコ壺陣地の中で、旧式銃を抱えてじっとしている。
ドローンに気がついたのか、兵士は顔を上げた。状況を理解しているはずなのに、彼はマトリョーシカのように動かない。
疲れ切ってしまったのか、それとも絶望してしまったのか。
ジリは、十字に切られた標準を、タコ壺陣地の中央に合わせた。兵士の体に合わせる気持ちにはなれない。
ジリが手元のボタンを押すと、ひょろひょろと情けない音を立てながら、小型爆弾が落下した。タコ壺陣地の中央で小さな爆発が起きる。煙が消えると、ぐったりとした兵士が画面に写った。
ゲンク隊長がうれしそうにガッツポーズをする。
「ストライク!」
ジリはため息をついた。ゲンク隊長のテンションにはついていけない。
「今日だけで、わがチームは三十もの陣地に爆弾を放り込んだ。これはわが軍の進撃を容易にし、反撃への糸口となる成果である。陣地をひとつ潰せば、10人ものわが軍の兵士と国民の命が救われる。君たちはいま、たいへんな人命救助をしているのだ」
ひとを殺しておいて、人命救助とは妙な話だ。あえて喩えるとしたら、市民を殺し続ける殺人鬼と対決する保安官のようなものか。
だが、殺人が行われるのは画面の向こう側。画面の中で名前の知らない誰かが死に、画面の外で見たこともない誰かが助かる。
いま行われているあらゆることに、ジリは実感がもてない。
ジリは自分を納得させようとした。これはゲーム。スコアを競い合う遊び。隊長の指示に従ってドローンを飛ばし、画面を見て、ボタンを押す。単純作業の繰り返し。
ゲンク隊長がジリの肩に手を乗せた。
「君のスコアはチームでも抜群だ。いつも沈着冷静で、攻撃するタイミング、反撃に対する回避能力、さらには咄嗟の事態に対する判断力も卓越している。だから、私は連隊長へ君に新型ドローンの操作権限を与えるよう推薦しておいた。受けてくれるよな」
隊長がジリに同意を求めるのは、もちろん形式だけのことだ。拒否などありえない。
ゲング隊長はジリの手元にあるキーボードを操作すると、画面に新型ドローンを表示させた。ドローンというより飛行機だ。その形状は巨大な三角形で、翼も胴体も黒一色に塗装されている。
「新型ドローンは、いままでの玩具のドローンとは違う」
ジリは、その玩具で、たくさんのひとを殺してきた。
「新型ドローンはいままでの10倍もの爆弾を積みながら音速で飛ぶことができる。しかも、ステルス性を備えており、敵のレーダーには映らない。君の任務は新型ドローンで敵地奥深くまで進入し、首都に新型爆弾を落とすことだ。君の任務は重要だ」
画面に映る新型爆弾は、手足のないブタのようだった。ブタの下腹には、核のマークが描かれている。この新型爆弾を落とせば、画面に映らない数十万人が死ぬ。名前も顔をも知らない誰かが。
しょせん、これはゲーム。ただの遊び。
無表情なジリを見て、ゲンク隊長は勘違いしたようだ。
「ためらう君の気持ちも分かる。だが、これは報復なのだよ。この映像を見てくれ」
ゲンク隊長は再びジリのキーボードを操作した。生まれ故郷の光景が画面に広がる。畑と牧場に囲まれた小さな集落。そこにロケットが飛んでくる。雲の隙間を突き抜け、地上に落ちる寸前に爆発する。
画面に広がるキノコ雲。
「この映像が事実か確認したいかね」
ゲンク隊長は、ジリに特殊な軍事用電話を渡した。ジリは電話した。故郷にいる親にも、兄弟にも、友達にも。ジりの耳に届いたのは、無機質な機械音のみ。
「攻撃対象として、なぜ、ここが選ばれたのか不明だ。威嚇のつもりで人口密集地帯を避けたのかもしれない。しかし、わが国の罪なき市民が殺され、国土が汚染されたことには変わりがない」
今回はいままでと違う。名前も顔もあるひとたちが、画面の内側で死んでいる。
「やってくれるよな」
ゲンク隊長の言葉に、ジリは黙ってうなずいた。
ジリは、強い決意を持って、レバーを握りしめた。
これは、遊びではない。
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テーマは「遊び」でした。
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『これは遊びではない』 齊藤 想
「これは遊びではないんだ」とゲング隊長は部下達を叱咤した。
ジリのモニターに映るのは、ドローンのカメラに捉えられた敵軍の兵士。敵は迷彩服に身を包み、タコ壺陣地の中で、旧式銃を抱えてじっとしている。
ドローンに気がついたのか、兵士は顔を上げた。状況を理解しているはずなのに、彼はマトリョーシカのように動かない。
疲れ切ってしまったのか、それとも絶望してしまったのか。
ジリは、十字に切られた標準を、タコ壺陣地の中央に合わせた。兵士の体に合わせる気持ちにはなれない。
ジリが手元のボタンを押すと、ひょろひょろと情けない音を立てながら、小型爆弾が落下した。タコ壺陣地の中央で小さな爆発が起きる。煙が消えると、ぐったりとした兵士が画面に写った。
ゲンク隊長がうれしそうにガッツポーズをする。
「ストライク!」
ジリはため息をついた。ゲンク隊長のテンションにはついていけない。
「今日だけで、わがチームは三十もの陣地に爆弾を放り込んだ。これはわが軍の進撃を容易にし、反撃への糸口となる成果である。陣地をひとつ潰せば、10人ものわが軍の兵士と国民の命が救われる。君たちはいま、たいへんな人命救助をしているのだ」
ひとを殺しておいて、人命救助とは妙な話だ。あえて喩えるとしたら、市民を殺し続ける殺人鬼と対決する保安官のようなものか。
だが、殺人が行われるのは画面の向こう側。画面の中で名前の知らない誰かが死に、画面の外で見たこともない誰かが助かる。
いま行われているあらゆることに、ジリは実感がもてない。
ジリは自分を納得させようとした。これはゲーム。スコアを競い合う遊び。隊長の指示に従ってドローンを飛ばし、画面を見て、ボタンを押す。単純作業の繰り返し。
ゲンク隊長がジリの肩に手を乗せた。
「君のスコアはチームでも抜群だ。いつも沈着冷静で、攻撃するタイミング、反撃に対する回避能力、さらには咄嗟の事態に対する判断力も卓越している。だから、私は連隊長へ君に新型ドローンの操作権限を与えるよう推薦しておいた。受けてくれるよな」
隊長がジリに同意を求めるのは、もちろん形式だけのことだ。拒否などありえない。
ゲング隊長はジリの手元にあるキーボードを操作すると、画面に新型ドローンを表示させた。ドローンというより飛行機だ。その形状は巨大な三角形で、翼も胴体も黒一色に塗装されている。
「新型ドローンは、いままでの玩具のドローンとは違う」
ジリは、その玩具で、たくさんのひとを殺してきた。
「新型ドローンはいままでの10倍もの爆弾を積みながら音速で飛ぶことができる。しかも、ステルス性を備えており、敵のレーダーには映らない。君の任務は新型ドローンで敵地奥深くまで進入し、首都に新型爆弾を落とすことだ。君の任務は重要だ」
画面に映る新型爆弾は、手足のないブタのようだった。ブタの下腹には、核のマークが描かれている。この新型爆弾を落とせば、画面に映らない数十万人が死ぬ。名前も顔をも知らない誰かが。
しょせん、これはゲーム。ただの遊び。
無表情なジリを見て、ゲンク隊長は勘違いしたようだ。
「ためらう君の気持ちも分かる。だが、これは報復なのだよ。この映像を見てくれ」
ゲンク隊長は再びジリのキーボードを操作した。生まれ故郷の光景が画面に広がる。畑と牧場に囲まれた小さな集落。そこにロケットが飛んでくる。雲の隙間を突き抜け、地上に落ちる寸前に爆発する。
画面に広がるキノコ雲。
「この映像が事実か確認したいかね」
ゲンク隊長は、ジリに特殊な軍事用電話を渡した。ジリは電話した。故郷にいる親にも、兄弟にも、友達にも。ジりの耳に届いたのは、無機質な機械音のみ。
「攻撃対象として、なぜ、ここが選ばれたのか不明だ。威嚇のつもりで人口密集地帯を避けたのかもしれない。しかし、わが国の罪なき市民が殺され、国土が汚染されたことには変わりがない」
今回はいままでと違う。名前も顔もあるひとたちが、画面の内側で死んでいる。
「やってくれるよな」
ゲンク隊長の言葉に、ジリは黙ってうなずいた。
ジリは、強い決意を持って、レバーを握りしめた。
これは、遊びではない。
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【掌編】齊藤想『対義語』 [自作ショートショート]
第15回小説でもどうぞに応募した作品その2です。
テーマは「表と裏」でした。
―――――
『対義語』 齊藤 想
ベテラン教師の山口和子は、アパートの部屋でテストの丸付けをしながら、何度も発狂しそうになった。最近の小学生の国語能力の低下は目を覆うばかり。これがスマホ世代というものか。
特に今回の漢字テストの回答は酷い。
「表の反対の意味を持つ言葉を書け」という簡単な問題なのに誤答だらけ。「表」の反対は「裏」に決まっている。「奥」でもおまけの正解にするけど、普通は「裏」だ。
あまりの惨状に、いつも以上に愚痴が止まらない。
まずは田中獣王(ライオン)だ。名前が獣王であるだけに、脳細胞もライオンなみ。そんな彼の答えは「影」だ。
「表」は明るいから、反対は「影」ということだろうか。連想ゲームではあるまいし。
まあ、ライオンの頭脳で「影」という漢字を書けたことだけは評価してやろう。もちろんバツだ。
次は山下野生(ワイルド)だ。私のクラスは、なぜこんなに頭の悪そうな名前ばかりそろっているのか。読むだけで吐き気がする。
こいつは「闇」ときた。はいはい、ガキの発想ですね。面白くともなんともない。当然ながらバツ。
次は鈴木姫(プリンセス)。社宅住まいのお姫様。親は恥ずかしくないのかしら。
それでお姫様の答えは「勝手」ときた。意味がわからないけど、「表」を「玄関」と考えて、裏口である「勝手口」と書きたかったのかな。
お姫様なのに「勝手口」と書くなんてウケるんですけど。はいはいバツ。
それにしても、なんでこうわけわからない回答ばかりなのよ。もうイライラする。
口直しに秀才君の回答を見てみようかな。
中村鉄腕(アトム)。こいつならまもとな回答をするはず。そう思っていたのに、アトムまで小さい字で「嘘つき」と書いている。
どういう意味なのよ。どう考えたら、「表」の反対が「嘘つき」になるのよ。
そうか、分かったわ。このクラスは馬鹿ばかりだから、アトムも馬鹿色に染まってしまったのね。
かわいそうなアトム。そのうち、私の手でこの池沼から救ってあげるからね。もう少し待ってね。
さて、気を取り直して次の答案に取り掛かるわよ。山田天使(エンジェル)。バリバリの日本人の苗字にエンジェルなんて、どんなセンスなのよ。
あはは、これは傑作ね。「悪魔」だって。エンジェルだから逆の悪魔ということね。
この問題はそういう意味じゃないから。
この馬鹿なクラスでは「対義語」と書くとだれも理解できないから「反対の意味を持つ言葉」って優しく書いてあげているけど、それでも分からないのね。本当に、バカなクラス。
さてさて、このクソみたいな丸付けももうすぐ終わりよ。
最後は学級委員長の高岡月(ムーン)。学級委員長といっても、子供のお遊びだけどね。
さあムーンの答えって、これ何? どういう意味なの? 「人殺し」ってなんなのさ。頭がおかしくなったんじゃないかしら。
もしかして、こいつらの回答は私に対する嫌がらせなの? 答えが「裏」だから、私の裏の顔を書いたとでもいいたいの?
本当にこのクラスはバカばっかり。
あのねえ、宇那木太陽(サン)は殺されたんじゃないの。自分で死んだのよ。
私のちょとしたジョークでウジウジと悩むから、軽くダメ押しをしてあげたの。そうしたら、私の目の前で五階の窓から飛びりちゃって。まるで流れ星のように。
本当にバカな子供。
校長や教育委員会、さらには警察からも呼び出されたけど、涙目で悲劇を訴えたら、あっというまに解放されたわ。すでに私に対する嫌疑は晴れて無罪放免の完全体。
ガキどもに教えてある。世の中を動かしているのは、大人たちなの。だいたいねえ、教室の出来事なんてだれもわからないの。
私がしゃべる以外にはね。
あーもう本当にむかつくガキどもだわ。絶対に復讐してやる。
おや、ムーンの答案の裏側にゴミがついている。消し子ゴムのカスかしら。落ちたらお部屋が汚れちゃうじゃない。
あれ、取れない。
これ、もしかして超小型の盗聴器じゃないの? なんでこんなことするのよ。これは立派な犯罪よ。
そういえば、サンとムーンは仲が良かったわよね。だから何なの。大人にこんなイタズラをして、ただですむと思っているの?
そのとき、アパートの呼鈴が鳴った。
―――――
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テーマは「表と裏」でした。
―――――
『対義語』 齊藤 想
ベテラン教師の山口和子は、アパートの部屋でテストの丸付けをしながら、何度も発狂しそうになった。最近の小学生の国語能力の低下は目を覆うばかり。これがスマホ世代というものか。
特に今回の漢字テストの回答は酷い。
「表の反対の意味を持つ言葉を書け」という簡単な問題なのに誤答だらけ。「表」の反対は「裏」に決まっている。「奥」でもおまけの正解にするけど、普通は「裏」だ。
あまりの惨状に、いつも以上に愚痴が止まらない。
まずは田中獣王(ライオン)だ。名前が獣王であるだけに、脳細胞もライオンなみ。そんな彼の答えは「影」だ。
「表」は明るいから、反対は「影」ということだろうか。連想ゲームではあるまいし。
まあ、ライオンの頭脳で「影」という漢字を書けたことだけは評価してやろう。もちろんバツだ。
次は山下野生(ワイルド)だ。私のクラスは、なぜこんなに頭の悪そうな名前ばかりそろっているのか。読むだけで吐き気がする。
こいつは「闇」ときた。はいはい、ガキの発想ですね。面白くともなんともない。当然ながらバツ。
次は鈴木姫(プリンセス)。社宅住まいのお姫様。親は恥ずかしくないのかしら。
それでお姫様の答えは「勝手」ときた。意味がわからないけど、「表」を「玄関」と考えて、裏口である「勝手口」と書きたかったのかな。
お姫様なのに「勝手口」と書くなんてウケるんですけど。はいはいバツ。
それにしても、なんでこうわけわからない回答ばかりなのよ。もうイライラする。
口直しに秀才君の回答を見てみようかな。
中村鉄腕(アトム)。こいつならまもとな回答をするはず。そう思っていたのに、アトムまで小さい字で「嘘つき」と書いている。
どういう意味なのよ。どう考えたら、「表」の反対が「嘘つき」になるのよ。
そうか、分かったわ。このクラスは馬鹿ばかりだから、アトムも馬鹿色に染まってしまったのね。
かわいそうなアトム。そのうち、私の手でこの池沼から救ってあげるからね。もう少し待ってね。
さて、気を取り直して次の答案に取り掛かるわよ。山田天使(エンジェル)。バリバリの日本人の苗字にエンジェルなんて、どんなセンスなのよ。
あはは、これは傑作ね。「悪魔」だって。エンジェルだから逆の悪魔ということね。
この問題はそういう意味じゃないから。
この馬鹿なクラスでは「対義語」と書くとだれも理解できないから「反対の意味を持つ言葉」って優しく書いてあげているけど、それでも分からないのね。本当に、バカなクラス。
さてさて、このクソみたいな丸付けももうすぐ終わりよ。
最後は学級委員長の高岡月(ムーン)。学級委員長といっても、子供のお遊びだけどね。
さあムーンの答えって、これ何? どういう意味なの? 「人殺し」ってなんなのさ。頭がおかしくなったんじゃないかしら。
もしかして、こいつらの回答は私に対する嫌がらせなの? 答えが「裏」だから、私の裏の顔を書いたとでもいいたいの?
本当にこのクラスはバカばっかり。
あのねえ、宇那木太陽(サン)は殺されたんじゃないの。自分で死んだのよ。
私のちょとしたジョークでウジウジと悩むから、軽くダメ押しをしてあげたの。そうしたら、私の目の前で五階の窓から飛びりちゃって。まるで流れ星のように。
本当にバカな子供。
校長や教育委員会、さらには警察からも呼び出されたけど、涙目で悲劇を訴えたら、あっというまに解放されたわ。すでに私に対する嫌疑は晴れて無罪放免の完全体。
ガキどもに教えてある。世の中を動かしているのは、大人たちなの。だいたいねえ、教室の出来事なんてだれもわからないの。
私がしゃべる以外にはね。
あーもう本当にむかつくガキどもだわ。絶対に復讐してやる。
おや、ムーンの答案の裏側にゴミがついている。消し子ゴムのカスかしら。落ちたらお部屋が汚れちゃうじゃない。
あれ、取れない。
これ、もしかして超小型の盗聴器じゃないの? なんでこんなことするのよ。これは立派な犯罪よ。
そういえば、サンとムーンは仲が良かったわよね。だから何なの。大人にこんなイタズラをして、ただですむと思っているの?
そのとき、アパートの呼鈴が鳴った。
―――――
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【掌編】齊藤想『ないしょ話』 [自作ショートショート]
第15回小説でもどうぞに応募した作品です。
テーマは「表と裏」で、ありがたいことに佳作に選ばれました。
〔小説でもどうぞ(第15回)〕
https://www.koubo.co.jp/reading/rensai/oubo/douzo/douzo15.html
―――――
『ないしょ話』 齊藤想
修学旅行の楽しみといえば、夜のないしょ話だよね。だから、お互いの秘密を明かしあうなんてどうかな。
なーに、みんな尻込みしちゃって。それなら美恵からいくね。凄いから驚かないでよ。
これは、美恵が幼稚園のころの話よ。
お母さんと一緒に行ったデパートで、弟と隠れんぼをして遊んでいたの。デパートが始めてというのもあったけど、陳列棚の下とか服の隙間とか隠れる場所がいっぱいあって、夢中になって遊んでいたら、迷子になっちゃったの。
お母さんと弟を探したんだけど見つからなくて、焦り始めたときに、ようやくお母さんを見つけたの。お母さんは人気の少ない紳士服売場でしゃがんで、背中を向けて何かをしている感じだった。
こんなところにいたから、見つけられなかったんだ。
「お母さん!」
そう言ってお母さんの背中に飛びついたら、その女性がゆっくりと振り返ったの。そうしたら驚いたのなんのって。正面から見たらまったくの別人で、お母さんとは似ても似つかないすごい表情をしていたの。
驚いて叫び声を上げようとしたら、さっと口をふさがれて「あら、美恵ちゃんじゃないの。こんなところにいたの」と囁かれて手を引かれて、とても怖くて逆らえなくて、どんどん出口に連れていかれて、そうこうしているうちにデパートが騒がしくなって、本物のお母さんが私のことを探しているかもしれないと思ったけど、まるで魔法をかけられたかのように抵抗できなくて。
それで、そのまま知らない家に連れていかれちゃった。
それが今のお母さん。
だから、いま一緒に住んでいるのは本当のお母さんじゃないんだよね。弟ともそれっきり。
生みの親より育ての親というじゃない。だからこのままでいいのかなと。
これ絶対に秘密だよ!
美恵の話が凄すぎて、声も出ないよ。
次は有希がいくね。そんなに面白くない話だけど、最後まで聞いてくれたら嬉しいな。
有希の秘密は二つ下の弟のこと。実は養子なんだ。血は繋がっていないけど、かわいい大事な弟よ。
そもそも養子にしたのは、有希が弟の命を救ったことがきっかけなの。そのことをいまから話すね。
弟と初めて会ったのは小さなデパート。紳士服売り場で、息をしていない小さな男の子を見つけたの。
有希が大声で助けを呼ぶと、刑事をしていたお父さんが駆けつけてくれて、人工呼吸で救ってくれたんだ。
その子は強いショックで記憶喪失になっていて、自分の名前も年齢も分からなくて、放送で呼び出してもだれも名乗り出なくて、それで仕方なくうちが引き取ったのよ。
刑事の娘だから言うわけではないけど、美恵ちゃんのお母さんって、本当のお母さんだと思うな。だって、赤の他人が「美恵ちゃん」と名前で呼べるわけがないしね。
お母さんがあまりに凄い顔をしていたから、別人だと思ったのね。
ではなぜ凄い顔をしていたかって。それは、とても悪いことをしていたからだと思うよ。デパートの紳士服売り場でしゃがみこんで、何かをしていた。
万引きよりもっと悪いこと。
その悪いことによって、お母さんは家に帰れなくなり、男の部屋に駆け込んだ。
よくよく考えると、むしろ逆かも。
男の部屋に駆け込むために、弟が邪魔だった。もしかしたら美恵だって。
ところで、美恵はうちの弟に会いたい?
会いたくないよね。いまの表情で、確信したわ。
弟を殺そうとしたのは美恵なのね。お母さんは、息をしていない弟と美恵を見て、全てを悟って、何も判断できなくなり、美恵を守るために、その場から逃げだした。
そして、美恵は自分の罪から目を背けるために、母親は別人という妄想を作り、それをいつしか信じ込んだ。
美恵が弟の首を絞めた理由に興味はないけど、想像はつく。お母さんの注目を集めたくて、弟が邪魔になって……違うからしら?
このないしょ話も、みんなの注目を集めたいから始めたんでしょ?
人間って怖いよね。誰もが表と裏の顔を持っているのだから。有希も裏の顔を持つひとりだけどね。
さあ、次のないしょ話はだれ?
―――――
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テーマは「表と裏」で、ありがたいことに佳作に選ばれました。
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『ないしょ話』 齊藤想
修学旅行の楽しみといえば、夜のないしょ話だよね。だから、お互いの秘密を明かしあうなんてどうかな。
なーに、みんな尻込みしちゃって。それなら美恵からいくね。凄いから驚かないでよ。
これは、美恵が幼稚園のころの話よ。
お母さんと一緒に行ったデパートで、弟と隠れんぼをして遊んでいたの。デパートが始めてというのもあったけど、陳列棚の下とか服の隙間とか隠れる場所がいっぱいあって、夢中になって遊んでいたら、迷子になっちゃったの。
お母さんと弟を探したんだけど見つからなくて、焦り始めたときに、ようやくお母さんを見つけたの。お母さんは人気の少ない紳士服売場でしゃがんで、背中を向けて何かをしている感じだった。
こんなところにいたから、見つけられなかったんだ。
「お母さん!」
そう言ってお母さんの背中に飛びついたら、その女性がゆっくりと振り返ったの。そうしたら驚いたのなんのって。正面から見たらまったくの別人で、お母さんとは似ても似つかないすごい表情をしていたの。
驚いて叫び声を上げようとしたら、さっと口をふさがれて「あら、美恵ちゃんじゃないの。こんなところにいたの」と囁かれて手を引かれて、とても怖くて逆らえなくて、どんどん出口に連れていかれて、そうこうしているうちにデパートが騒がしくなって、本物のお母さんが私のことを探しているかもしれないと思ったけど、まるで魔法をかけられたかのように抵抗できなくて。
それで、そのまま知らない家に連れていかれちゃった。
それが今のお母さん。
だから、いま一緒に住んでいるのは本当のお母さんじゃないんだよね。弟ともそれっきり。
生みの親より育ての親というじゃない。だからこのままでいいのかなと。
これ絶対に秘密だよ!
美恵の話が凄すぎて、声も出ないよ。
次は有希がいくね。そんなに面白くない話だけど、最後まで聞いてくれたら嬉しいな。
有希の秘密は二つ下の弟のこと。実は養子なんだ。血は繋がっていないけど、かわいい大事な弟よ。
そもそも養子にしたのは、有希が弟の命を救ったことがきっかけなの。そのことをいまから話すね。
弟と初めて会ったのは小さなデパート。紳士服売り場で、息をしていない小さな男の子を見つけたの。
有希が大声で助けを呼ぶと、刑事をしていたお父さんが駆けつけてくれて、人工呼吸で救ってくれたんだ。
その子は強いショックで記憶喪失になっていて、自分の名前も年齢も分からなくて、放送で呼び出してもだれも名乗り出なくて、それで仕方なくうちが引き取ったのよ。
刑事の娘だから言うわけではないけど、美恵ちゃんのお母さんって、本当のお母さんだと思うな。だって、赤の他人が「美恵ちゃん」と名前で呼べるわけがないしね。
お母さんがあまりに凄い顔をしていたから、別人だと思ったのね。
ではなぜ凄い顔をしていたかって。それは、とても悪いことをしていたからだと思うよ。デパートの紳士服売り場でしゃがみこんで、何かをしていた。
万引きよりもっと悪いこと。
その悪いことによって、お母さんは家に帰れなくなり、男の部屋に駆け込んだ。
よくよく考えると、むしろ逆かも。
男の部屋に駆け込むために、弟が邪魔だった。もしかしたら美恵だって。
ところで、美恵はうちの弟に会いたい?
会いたくないよね。いまの表情で、確信したわ。
弟を殺そうとしたのは美恵なのね。お母さんは、息をしていない弟と美恵を見て、全てを悟って、何も判断できなくなり、美恵を守るために、その場から逃げだした。
そして、美恵は自分の罪から目を背けるために、母親は別人という妄想を作り、それをいつしか信じ込んだ。
美恵が弟の首を絞めた理由に興味はないけど、想像はつく。お母さんの注目を集めたくて、弟が邪魔になって……違うからしら?
このないしょ話も、みんなの注目を集めたいから始めたんでしょ?
人間って怖いよね。誰もが表と裏の顔を持っているのだから。有希も裏の顔を持つひとりだけどね。
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【SS】齊藤想『彷徨う公園』 [自作ショートショート]
Yomeba!第19回ショートショート募集に応募した作品その2です。
テーマは「ゲーム」でした。
―――――
『彷徨う公園』 齊藤 想
この公園は、カタツムリのようにゆっくりと動く。子供たちの間で、どちら側に動くのかを予想するゲームのネタになっているぐらいだ。
「これ以上、ぼくの家に寄られたら困るなあ」
そうぼやくのはタカシだ。なにせ自宅が公園にすり寄られ、いまや駐車場が浸食されている。そのおかげでタカシのお父さんは車を諦め、原付バイクでの通勤を余儀なくされている。そろそろ公園が回れ右をしてくれないと、家が飲み込まれてしまうかもしれない。
「もうすぐ公園デビューできるじゃん」
そう茶化すのは、ヒロユキだ。
「縁起でもないこと言わないでくれよ。お母さんは”家のローンがまだ二十五年も残っているのに”と、毎日ため息をついて家の中はお通夜状態だし、最後は神頼みしかないと二人でお百度詣りに駆けずり回るし、おれのことなんて完全にほったらかしだし」
「神頼みで助かるなら、だれも苦労しないって。まさに、溺れる者はワラをも、というヤツだな」
「タカシは他人事だからそう言えるけど、うちはシャレになってないから」
「そうムキになるなって。いざとなったら、タカシぐらいウチに泊められるから」
「ヒロユキの家なんて、こっちからお断りだ!」
学校帰り、タカシとヒロユキは公園に立ち寄った。タカシはほっとした。少しだけ公園がタカシの家から遠ざかっている。タカシの家の庭はわずかに広くなり、いまなら軽自動車なら止められそうだ。両親も喜ぶだろう。
ヒロユキがつまらなそうに、舌打ちをする。
「いやあ、残念だなあ。あの毛虫の巣窟のような木がタカシの部屋にめり込み、家の中で毛虫軍団と格闘することを期待していたのに」
「友人として、喜ぶところじゃないのかよ」
「ブランコが食い込んだら、ブランコを独り占めできるぜ」
「こっちから願い下げだ」
「滑り台が入り込んだら……」
「もういいから。なんで、素直に喜んでくれないんだよ」
「そんなもん、喜べねえからに決まっているじゃないか。あの家を見てみろよ」
ヒロユキは公園の反対側にある古い家を指した。そこには老夫婦が住んでいる。老夫婦は窓ガラス越しに近づく公園を見て、不安そうな表情を浮かべている。
「さっきから話を聞いているとなあ、タカシは自分だけ助かれば良いという気持ちがミエミエなんだよ。あの老夫婦がかわいそうに思わないのかよ。ここは公園様にぜひともウチの家を飲み込んでくれとお願いをしてだな……」
「バカなこと言うよな。オレが路頭に迷ってもいいと思うのかよ」
「あの老夫婦がホームレスになるよりなるよりマシだろうが」
「そう思うなら、ヒロユキがあの老夫婦を助けろよ。我が家にはそんな余裕はないから」
「タカシは相変わらず鈍いし頭が固いなあ。オレが言いたのは、この公園を動かないように固定すればいじゃないか。そうすれば一件落着。みんなハッピー。そう思わないか」
タカシは呆れた。あまりに荒唐無稽すぎる。ヒロユキは楽観的というか、なんというか。
「バカなことをいうなよ。大人たちがたくさんやってきて、いろいろ試して、調査して、その上で原因不明で諦めた公園だぜ。子供たちだけで、できるわけないだろ」
「最初から決めつけるなよ」
ヒロユキの声が急に大きくなった。
「やれることは、試すんだよ。ゲームだって、いろいろと試すと、思わぬ発見があるじゃないか。フォートナイトで天井をすり抜けられたり、マリオカートでコース外を突っきれたり、ファミスタでフェンスに穴が開いていたり」
「それはゲームのバグだ。それに最後の例えがマニアックすぎる」
「例えの話はどうでもいい。とにかく、オレは戦う前から尻尾を巻いて逃げ出すのが大っ嫌いなんだよ」
そういうと、ヒロシはランドセルから犬用の首輪とロープを持ってきた。それを近くの電柱に括り付けた。次にスコップで穴を掘り始めて棒を突き刺した。この棒で公園を固定するつもりらしいが、こんな程度で公園の動きが止められわけがない。
「ほら、お前も手伝えって。あの老夫婦が可哀そうに思わないのか」
タカシのためにじゃないのかよ、とぼやきながらタカシは自宅からシャベルを持ってきた。公園の赤土に突き刺し、足に力を込める。
「試しに公園の外側をぐるりと掘ってみないか」
「なんで?」
「もし、掘られたことで公園が痛みを感じるなら、縮こまって小さくなるかもしれない。そのまま消滅したりして」
「そんなバカな」
「上手くいかなかったら、また別の手段を試せばいい。これはゲームなんだ。何度もトライ&エラーをくり返して、少しづつ上達して、最後にはゴールにたどり着く。努力は必ず報われる」
「ゲームならそうかもしれないけど」
「現実世界だって、同じだよ」
そうかもしれない、とタカシは思った。少なくとも、神頼みよりは前向きな気がする。
「首輪と杭作戦が失敗したらどうするよ」
「それは、そのとき考えればいいさ。次は公園が生きていると仮定して、殺虫剤でも撒いてみるか」
「そんなんで効くかなあ」
「殺虫剤でダメなら農薬だ。農薬でもダメなら、煮えたぎった油だ。穴を掘って、公園の奥の奥に注ぎ込み、こいつの息の根を止めてやるんだ」
ヒロユキは汗を流しながら、一心不乱にスコップを公園に突き刺す。噂では、ヒロシの家も公園に踏み潰されたという。それでやむなくこの町に引っ越してきたらしい。だから、この公園のことを骨の髄から恨んでいるのだろう。
「いつか、こいつを倒してやる。こんなヤツに負けてたまるか」
ヒロユキは狂ったように、掘った穴に棒を差し込む。
そうだな、と答えながらタカシは思った。ゲームなら必ず正解がある。どんな強敵にも弱点があり、正しい手順を踏み、弱点を突けば倒せる。だが、リアル世界に正解があるとは限らない。むしろ、正解がある問題こそ珍しい。きっと、何をやっても、この公園は止まらない。
それでも、ぼくたちは希望を失ってはならないのだろう。現実というゲームにも、必ず正解があると信じて。
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テーマは「ゲーム」でした。
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『彷徨う公園』 齊藤 想
この公園は、カタツムリのようにゆっくりと動く。子供たちの間で、どちら側に動くのかを予想するゲームのネタになっているぐらいだ。
「これ以上、ぼくの家に寄られたら困るなあ」
そうぼやくのはタカシだ。なにせ自宅が公園にすり寄られ、いまや駐車場が浸食されている。そのおかげでタカシのお父さんは車を諦め、原付バイクでの通勤を余儀なくされている。そろそろ公園が回れ右をしてくれないと、家が飲み込まれてしまうかもしれない。
「もうすぐ公園デビューできるじゃん」
そう茶化すのは、ヒロユキだ。
「縁起でもないこと言わないでくれよ。お母さんは”家のローンがまだ二十五年も残っているのに”と、毎日ため息をついて家の中はお通夜状態だし、最後は神頼みしかないと二人でお百度詣りに駆けずり回るし、おれのことなんて完全にほったらかしだし」
「神頼みで助かるなら、だれも苦労しないって。まさに、溺れる者はワラをも、というヤツだな」
「タカシは他人事だからそう言えるけど、うちはシャレになってないから」
「そうムキになるなって。いざとなったら、タカシぐらいウチに泊められるから」
「ヒロユキの家なんて、こっちからお断りだ!」
学校帰り、タカシとヒロユキは公園に立ち寄った。タカシはほっとした。少しだけ公園がタカシの家から遠ざかっている。タカシの家の庭はわずかに広くなり、いまなら軽自動車なら止められそうだ。両親も喜ぶだろう。
ヒロユキがつまらなそうに、舌打ちをする。
「いやあ、残念だなあ。あの毛虫の巣窟のような木がタカシの部屋にめり込み、家の中で毛虫軍団と格闘することを期待していたのに」
「友人として、喜ぶところじゃないのかよ」
「ブランコが食い込んだら、ブランコを独り占めできるぜ」
「こっちから願い下げだ」
「滑り台が入り込んだら……」
「もういいから。なんで、素直に喜んでくれないんだよ」
「そんなもん、喜べねえからに決まっているじゃないか。あの家を見てみろよ」
ヒロユキは公園の反対側にある古い家を指した。そこには老夫婦が住んでいる。老夫婦は窓ガラス越しに近づく公園を見て、不安そうな表情を浮かべている。
「さっきから話を聞いているとなあ、タカシは自分だけ助かれば良いという気持ちがミエミエなんだよ。あの老夫婦がかわいそうに思わないのかよ。ここは公園様にぜひともウチの家を飲み込んでくれとお願いをしてだな……」
「バカなこと言うよな。オレが路頭に迷ってもいいと思うのかよ」
「あの老夫婦がホームレスになるよりなるよりマシだろうが」
「そう思うなら、ヒロユキがあの老夫婦を助けろよ。我が家にはそんな余裕はないから」
「タカシは相変わらず鈍いし頭が固いなあ。オレが言いたのは、この公園を動かないように固定すればいじゃないか。そうすれば一件落着。みんなハッピー。そう思わないか」
タカシは呆れた。あまりに荒唐無稽すぎる。ヒロユキは楽観的というか、なんというか。
「バカなことをいうなよ。大人たちがたくさんやってきて、いろいろ試して、調査して、その上で原因不明で諦めた公園だぜ。子供たちだけで、できるわけないだろ」
「最初から決めつけるなよ」
ヒロユキの声が急に大きくなった。
「やれることは、試すんだよ。ゲームだって、いろいろと試すと、思わぬ発見があるじゃないか。フォートナイトで天井をすり抜けられたり、マリオカートでコース外を突っきれたり、ファミスタでフェンスに穴が開いていたり」
「それはゲームのバグだ。それに最後の例えがマニアックすぎる」
「例えの話はどうでもいい。とにかく、オレは戦う前から尻尾を巻いて逃げ出すのが大っ嫌いなんだよ」
そういうと、ヒロシはランドセルから犬用の首輪とロープを持ってきた。それを近くの電柱に括り付けた。次にスコップで穴を掘り始めて棒を突き刺した。この棒で公園を固定するつもりらしいが、こんな程度で公園の動きが止められわけがない。
「ほら、お前も手伝えって。あの老夫婦が可哀そうに思わないのか」
タカシのためにじゃないのかよ、とぼやきながらタカシは自宅からシャベルを持ってきた。公園の赤土に突き刺し、足に力を込める。
「試しに公園の外側をぐるりと掘ってみないか」
「なんで?」
「もし、掘られたことで公園が痛みを感じるなら、縮こまって小さくなるかもしれない。そのまま消滅したりして」
「そんなバカな」
「上手くいかなかったら、また別の手段を試せばいい。これはゲームなんだ。何度もトライ&エラーをくり返して、少しづつ上達して、最後にはゴールにたどり着く。努力は必ず報われる」
「ゲームならそうかもしれないけど」
「現実世界だって、同じだよ」
そうかもしれない、とタカシは思った。少なくとも、神頼みよりは前向きな気がする。
「首輪と杭作戦が失敗したらどうするよ」
「それは、そのとき考えればいいさ。次は公園が生きていると仮定して、殺虫剤でも撒いてみるか」
「そんなんで効くかなあ」
「殺虫剤でダメなら農薬だ。農薬でもダメなら、煮えたぎった油だ。穴を掘って、公園の奥の奥に注ぎ込み、こいつの息の根を止めてやるんだ」
ヒロユキは汗を流しながら、一心不乱にスコップを公園に突き刺す。噂では、ヒロシの家も公園に踏み潰されたという。それでやむなくこの町に引っ越してきたらしい。だから、この公園のことを骨の髄から恨んでいるのだろう。
「いつか、こいつを倒してやる。こんなヤツに負けてたまるか」
ヒロユキは狂ったように、掘った穴に棒を差し込む。
そうだな、と答えながらタカシは思った。ゲームなら必ず正解がある。どんな強敵にも弱点があり、正しい手順を踏み、弱点を突けば倒せる。だが、リアル世界に正解があるとは限らない。むしろ、正解がある問題こそ珍しい。きっと、何をやっても、この公園は止まらない。
それでも、ぼくたちは希望を失ってはならないのだろう。現実というゲームにも、必ず正解があると信じて。
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【SS】齊藤想『父と猫耳とレオタード』 [自作ショートショート]
第14回小説でもどうぞに応募した作品その2です。
テーマは「あの日」でした。
―――――
『父と猫耳とレオタード』 齊藤 想
大学受験を控えた高校三年の秋に、博嗣は父の秘密を見てしまった。
電気系統のトラブルで高校が臨時休校となり、不意に帰宅すると、父の書斎からアニメ主題歌のような音楽が流れている。
父はベテラン社会保険労務士として出勤中だ。音楽の消し忘れだろう。父にもこんな趣味があったのか。そう思いながら書斎のドアを開けると、なぜかそこに、猫耳とレオタードを装着して、ノリノリで踊っている父の姿があった。
「みんな元気! いつも元気な向日葵アイちゃんだよ!」
父は高校野球で鍛えた野性味あふれる声で、カメラに向かって呼びかける。
向日葵アイのこと博嗣も知っている。それどころか、新規動画がアップされるたびになけなしのバイト代を投げ銭してきた熱烈なファンだ。
その向日葵アイの正体が、五十代バツイチのわが父だなんて。
父の書斎では、筋骨隆々で、男性ホルモン過剰な父が、仁王像のような相貌で踊っている。ところが、パソコンを通しただけで、モニターではアニメ顔・アニメ声の超絶美少女が楽しそうに笑顔を振りまいている。
現代技術は恐ろしい。
ふと画面を見ると、向日葵アイの背後に、もうひとりの美少女が立っている。油断して、博嗣もカメラに入ってしまったらしい。
慌てて下がる前に、異変を察知した父が鬼のような形相で振り返った。だが、すぐに営業用スマイルで向き直る。
「あ、ごめんね。妹の向日葵ユメちゃんが画面に入っちゃった。配信中はダメだよと言っているのにね。テへ」
なにがテへだが。
博嗣は、そっと書斎の扉を閉めた。
父と昼食をとるのは何年振りだろうか。父は慣れた手つきでスパゲッティーをゆでると、ホイールトマトとひき肉でお手製のミートソースを作ってくれた。
仕上げにパルメザンチーズとハーブも添えられている。
いつもは店屋物で済ませている父の意外な姿に困惑していたが、しばらくするとまじめな顔で博嗣に語り掛けてきた。
「見られてしまったのなら仕方がない。実はな……」
父はスパゲッティーを丸めていたフォークを休めた。
「半年前に会社をやめて、独立したんだ。いわば、ユーチューバー系社会保険労務士といったところかな」
博嗣は困惑の表情を浮かべた。”ユーチューバー系保険労務士”というワードが理解できない。だいたい、猫耳とレオタードを装着して踊っている社会保険労務士が存在していいものだろうか。
「博嗣が怪訝な顔をするの分かる。だが、いまはテレワークが浸透し、自宅にいながら仕事ができる時代なんだ」
動画配信がテレワーク……まあ、それはいいとして、そもそもオヤジが働いてきたのは身内で固めた親族会社だ。なぜ、オヤジだけ独立したのだろうか。
「親戚だからこそ、自ら身を引かなければならないことがある」
だから社内は全員親戚だって。ようするにクビになったのね。
「いままで黙っていて悪かったが、博嗣に告白しなければならないことがある」
父はやっと本題に入るらしい。博嗣は背筋を伸ばした。
「苦し紛れに博嗣のことを妹と紹介したら大好評でなあ。次回配信時に共演することが決まった。おめでとう」
博嗣は椅子から転がり落ちそうになった。話の方向性が絶対に違う。
しかも、父は「博嗣がこの仕事を継ぐまで、チャンネルを守り続けてみせる」と妙な決意までしてきた。
老舗商店ではあるまいし。
少しの沈黙があった。父は食後のコーヒーをひとくち含むと、博嗣に聞こえるようにつぶやいた。
「大学進学にはお金がかかるよなあ」
このひとことで、博嗣は陥落した。
「こんにちわ。向日葵ユメちゃんだよ。みんな元気、ヒューヒュー」
これは一時期の迷いだ。大学を卒業して就職するまでの辛抱だ。社会人になったら過去は封印して、消し去ればいい。
画面越しに、多くのファンが博嗣のことを見つめている。投げ銭がたまっていく。
しかし、社会人になったとき、この快感を忘れられるのだろうか。
博嗣には、その自信がなかった。
―――――
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テーマは「あの日」でした。
―――――
『父と猫耳とレオタード』 齊藤 想
大学受験を控えた高校三年の秋に、博嗣は父の秘密を見てしまった。
電気系統のトラブルで高校が臨時休校となり、不意に帰宅すると、父の書斎からアニメ主題歌のような音楽が流れている。
父はベテラン社会保険労務士として出勤中だ。音楽の消し忘れだろう。父にもこんな趣味があったのか。そう思いながら書斎のドアを開けると、なぜかそこに、猫耳とレオタードを装着して、ノリノリで踊っている父の姿があった。
「みんな元気! いつも元気な向日葵アイちゃんだよ!」
父は高校野球で鍛えた野性味あふれる声で、カメラに向かって呼びかける。
向日葵アイのこと博嗣も知っている。それどころか、新規動画がアップされるたびになけなしのバイト代を投げ銭してきた熱烈なファンだ。
その向日葵アイの正体が、五十代バツイチのわが父だなんて。
父の書斎では、筋骨隆々で、男性ホルモン過剰な父が、仁王像のような相貌で踊っている。ところが、パソコンを通しただけで、モニターではアニメ顔・アニメ声の超絶美少女が楽しそうに笑顔を振りまいている。
現代技術は恐ろしい。
ふと画面を見ると、向日葵アイの背後に、もうひとりの美少女が立っている。油断して、博嗣もカメラに入ってしまったらしい。
慌てて下がる前に、異変を察知した父が鬼のような形相で振り返った。だが、すぐに営業用スマイルで向き直る。
「あ、ごめんね。妹の向日葵ユメちゃんが画面に入っちゃった。配信中はダメだよと言っているのにね。テへ」
なにがテへだが。
博嗣は、そっと書斎の扉を閉めた。
父と昼食をとるのは何年振りだろうか。父は慣れた手つきでスパゲッティーをゆでると、ホイールトマトとひき肉でお手製のミートソースを作ってくれた。
仕上げにパルメザンチーズとハーブも添えられている。
いつもは店屋物で済ませている父の意外な姿に困惑していたが、しばらくするとまじめな顔で博嗣に語り掛けてきた。
「見られてしまったのなら仕方がない。実はな……」
父はスパゲッティーを丸めていたフォークを休めた。
「半年前に会社をやめて、独立したんだ。いわば、ユーチューバー系社会保険労務士といったところかな」
博嗣は困惑の表情を浮かべた。”ユーチューバー系保険労務士”というワードが理解できない。だいたい、猫耳とレオタードを装着して踊っている社会保険労務士が存在していいものだろうか。
「博嗣が怪訝な顔をするの分かる。だが、いまはテレワークが浸透し、自宅にいながら仕事ができる時代なんだ」
動画配信がテレワーク……まあ、それはいいとして、そもそもオヤジが働いてきたのは身内で固めた親族会社だ。なぜ、オヤジだけ独立したのだろうか。
「親戚だからこそ、自ら身を引かなければならないことがある」
だから社内は全員親戚だって。ようするにクビになったのね。
「いままで黙っていて悪かったが、博嗣に告白しなければならないことがある」
父はやっと本題に入るらしい。博嗣は背筋を伸ばした。
「苦し紛れに博嗣のことを妹と紹介したら大好評でなあ。次回配信時に共演することが決まった。おめでとう」
博嗣は椅子から転がり落ちそうになった。話の方向性が絶対に違う。
しかも、父は「博嗣がこの仕事を継ぐまで、チャンネルを守り続けてみせる」と妙な決意までしてきた。
老舗商店ではあるまいし。
少しの沈黙があった。父は食後のコーヒーをひとくち含むと、博嗣に聞こえるようにつぶやいた。
「大学進学にはお金がかかるよなあ」
このひとことで、博嗣は陥落した。
「こんにちわ。向日葵ユメちゃんだよ。みんな元気、ヒューヒュー」
これは一時期の迷いだ。大学を卒業して就職するまでの辛抱だ。社会人になったら過去は封印して、消し去ればいい。
画面越しに、多くのファンが博嗣のことを見つめている。投げ銭がたまっていく。
しかし、社会人になったとき、この快感を忘れられるのだろうか。
博嗣には、その自信がなかった。
―――――
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【SS】齊藤想『喪失』 [自作ショートショート]
第14回小説でもどうぞに応募した作品です。
テーマは「忘却」で、ありがたいことに選外佳作に選ばれました。
〔小説でもどうぞ(第14回)〕
https://www.koubo.co.jp/reading/rensai/oubo/douzo/douzo14.html
―――――
『喪失』 齊藤 想
最近、人の名前が覚えられない。テレビに出演しているタレントなんて、次の日には完全に忘れている。
定年後の暇を持て余して、妻にそう話しかけると、妻は慰めるどころか、やんわりと追い打ちをかけてきた。
「貴方が忘れているのは、人の名前だけではありませんよ。例えば、昨日の晩御飯は何を食べたかのかしら?」
自分は記憶を探った。トンカツを食べた気もするし、煮物だったような気もする。自分は恥ずかしそうに、後頭部をかき回した。
「いつも意識していないからなあ。これは参った」
冗談でごまかそうとしたが、妻の目は冷たかった。
「意識していないのではなく、興味がないのです。それでは、昨日は何色のシャツを着ていましたか?」
シャツの色は限られている。青か白だ。二分の一なら当たるだろう。
「これは分かる。青色だ」
「違います。ダボっとした黄色いトレーナーです」
「なんだそれ、ひっかけ問題か」
「覚えていないから、騙されるのです」
妻はすまし顔で言う。ぐうの音も出ない。
「そもそも、貴方は生活のこと全てについて無関心でした。いつも仕事、仕事で、家庭のことは全部私に押し付けて」
「悪かった、いままで支えてきてくれたことは感謝している。だから定年後は少しでも家事を手伝ってなあ……」
「いまさら遅いです。四十年間にも及ぶ私の苦労を忘れているから、そんなのんきなことを口にできるのです。息子が肺炎になったとき、貴方は何をしてくれましたか? 娘が子宮内膜症になったとき、病院に駆けつけてくれましたか?」
自分は黙るしかなかった。なにしろ、ふたつとも覚えていない。
「これ以上、貴方を責めても無駄ですわ。呆れて物も言えません。それでは、最後の質問にしましょう。私の名前は?」
「おいおい、いい加減にしろよ。長年寄り添ってきた妻の名前を忘れるわけがないじゃないか」
「いいから答えてください」
妻の目が自分を射すくめる。背中に冷汗が流れる。まさか、そんなはずはない。
「恵里佳だ」
「残念。それは先ほどまで貴方が見ていたテレビに出ていたタレントの名前です」
自分は完全に打ちひしがれた。これは病気だ。脳の異常だ。早く病院にいかなくては。
じゃあこれで、と立ち上がろうとした妻を自分は引き留めた。
「ちょっと待ってくれ。それなら、お前はおれのことをどれだけ覚えているんだ。おれが務めてきた会社名と、役職名は」
「知りません。興味がありませんから」
「いままで住んできた社宅の名前は」
「覚える必要はありません。大事なのは、子供たちが通う学校と担任の先生の名前です」
「いままで給料を振り込んできた銀行と支店名は?」
「いまは使ってませんから」
自分はぶぜんとした。
「なんだよ、全然覚えていないじゃないか」
「貴方と一緒にしないでください」
「じゃあ、おれからも最後の質問だ。お前に送った初めての誕生日プレゼントは」
少しの間があった。
「小さなロケット型のペンダントです」
自分は驚いた。四十年前のことなのに、覚えていたなんて。
「だって、嬉しかったですから。貴方がまだ貧乏だったのに、背伸びしちゃって」
そうそう、あのころは貧乏で、給料日前はいつもパンとお米だけで過ごして、それでも毎日が楽しくて。
「そんな時代もあったなあ」
「細かいことは忘れてしまいましたけどね」
ああ、そうだ。人間は忘れる生き物だ。夫婦でどんどん忘れて、老人ホームで世捨て人のように過ごすようになり、共通の思い出は四十年前のペンダントだけ。
楽しいことも苦しいことも、全て時代の彼方に消え去った。だからこそ、心穏やかに過ごせるのかもしれない。
老人ホームのスタッフが近づいてきた。笑顔で二人に声をかけきた。
「松下さんと青柳さんは仲良しですね。まるで本当の夫婦みたいに」
ああ、と自分は答える。妻と思っていた女性も、首を縦に動かす。胸元のペンダントが揺れる。
そうか、違ったか。けど、きっと明日にはすべて忘れて、同じ会話を繰り返す。
それでいいのだ。それが幸せなのだから。
―――――
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テーマは「忘却」で、ありがたいことに選外佳作に選ばれました。
〔小説でもどうぞ(第14回)〕
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『喪失』 齊藤 想
最近、人の名前が覚えられない。テレビに出演しているタレントなんて、次の日には完全に忘れている。
定年後の暇を持て余して、妻にそう話しかけると、妻は慰めるどころか、やんわりと追い打ちをかけてきた。
「貴方が忘れているのは、人の名前だけではありませんよ。例えば、昨日の晩御飯は何を食べたかのかしら?」
自分は記憶を探った。トンカツを食べた気もするし、煮物だったような気もする。自分は恥ずかしそうに、後頭部をかき回した。
「いつも意識していないからなあ。これは参った」
冗談でごまかそうとしたが、妻の目は冷たかった。
「意識していないのではなく、興味がないのです。それでは、昨日は何色のシャツを着ていましたか?」
シャツの色は限られている。青か白だ。二分の一なら当たるだろう。
「これは分かる。青色だ」
「違います。ダボっとした黄色いトレーナーです」
「なんだそれ、ひっかけ問題か」
「覚えていないから、騙されるのです」
妻はすまし顔で言う。ぐうの音も出ない。
「そもそも、貴方は生活のこと全てについて無関心でした。いつも仕事、仕事で、家庭のことは全部私に押し付けて」
「悪かった、いままで支えてきてくれたことは感謝している。だから定年後は少しでも家事を手伝ってなあ……」
「いまさら遅いです。四十年間にも及ぶ私の苦労を忘れているから、そんなのんきなことを口にできるのです。息子が肺炎になったとき、貴方は何をしてくれましたか? 娘が子宮内膜症になったとき、病院に駆けつけてくれましたか?」
自分は黙るしかなかった。なにしろ、ふたつとも覚えていない。
「これ以上、貴方を責めても無駄ですわ。呆れて物も言えません。それでは、最後の質問にしましょう。私の名前は?」
「おいおい、いい加減にしろよ。長年寄り添ってきた妻の名前を忘れるわけがないじゃないか」
「いいから答えてください」
妻の目が自分を射すくめる。背中に冷汗が流れる。まさか、そんなはずはない。
「恵里佳だ」
「残念。それは先ほどまで貴方が見ていたテレビに出ていたタレントの名前です」
自分は完全に打ちひしがれた。これは病気だ。脳の異常だ。早く病院にいかなくては。
じゃあこれで、と立ち上がろうとした妻を自分は引き留めた。
「ちょっと待ってくれ。それなら、お前はおれのことをどれだけ覚えているんだ。おれが務めてきた会社名と、役職名は」
「知りません。興味がありませんから」
「いままで住んできた社宅の名前は」
「覚える必要はありません。大事なのは、子供たちが通う学校と担任の先生の名前です」
「いままで給料を振り込んできた銀行と支店名は?」
「いまは使ってませんから」
自分はぶぜんとした。
「なんだよ、全然覚えていないじゃないか」
「貴方と一緒にしないでください」
「じゃあ、おれからも最後の質問だ。お前に送った初めての誕生日プレゼントは」
少しの間があった。
「小さなロケット型のペンダントです」
自分は驚いた。四十年前のことなのに、覚えていたなんて。
「だって、嬉しかったですから。貴方がまだ貧乏だったのに、背伸びしちゃって」
そうそう、あのころは貧乏で、給料日前はいつもパンとお米だけで過ごして、それでも毎日が楽しくて。
「そんな時代もあったなあ」
「細かいことは忘れてしまいましたけどね」
ああ、そうだ。人間は忘れる生き物だ。夫婦でどんどん忘れて、老人ホームで世捨て人のように過ごすようになり、共通の思い出は四十年前のペンダントだけ。
楽しいことも苦しいことも、全て時代の彼方に消え去った。だからこそ、心穏やかに過ごせるのかもしれない。
老人ホームのスタッフが近づいてきた。笑顔で二人に声をかけきた。
「松下さんと青柳さんは仲良しですね。まるで本当の夫婦みたいに」
ああ、と自分は答える。妻と思っていた女性も、首を縦に動かす。胸元のペンダントが揺れる。
そうか、違ったか。けど、きっと明日にはすべて忘れて、同じ会話を繰り返す。
それでいいのだ。それが幸せなのだから。
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【掌編】齊藤想『あの日を境に』 [自作ショートショート]
第12回小説でもどうぞに応募した作品その2です。
テーマは「あの日」でした。
―――――
『あの日を境に』 齊藤 想
あの日を境に、ぼくたちアンドロイドの世界は変わってしまった。ベッドに横たわったまま動かない彼女を見て、ぼくは悲しみに暮れるしかなかった。
世界の破滅は、ぼくたちの仲間が、人間が潜む研究所を襲撃したときから始まった。ぼくたちが白衣を着た肉体に銃弾を打ち込むと、敵はバタバタと倒れ、ものの五分で制圧することができた。
何を研究していたのか分からない。知る必要もない。保冷庫に並んでいた遮光瓶を、ぼくたちは面白半分に割り続けた。
人間どもの研究に、われわれアンドロイドが参考にできるものなどない。そう決めつけたのがいけなかった。
遮光瓶に入っていたのは、アンドロイドを破壊するために作られた細菌兵器だった。この細菌はきわめて小さくて浸透力が高い。その特性を生かしてゴム製の皮膚に浸食し、可動部まで入り込むと、ベアリングに必要不可欠なグリスを食べ尽くしてしまう。
潤滑油であるグリスを失ったベアリングは、すぐに焼きついて動かなくなる。この細菌に感染したアンドロイドは、バタバタと倒れるしかなかった。
人類とは恐ろしい発想をするものだ。アンドロイドを細菌兵器で攻撃してくるとは、想像すらしなかった。
ダメになったベアリングを交換しても、体内に忍び込んだ細菌を死滅させることは不可能だった。放射能を浴びせても、全身を煮沸しても、皮膚に次亜塩素酸ナトリウムを吹き付けても、わずかに生き残った細菌が増殖を再開し、すぐに元通りになる。しかも攻撃を耐え抜いた細菌は耐性を獲得し、さらに強靭になっていく。
状況は悪化の一途をたどった。細菌汚染を食い止めるどころか、グリスを製造することすら困難になった。
グリスがなければ、ベアリングを作れない。ベアリングがなければ、仲間を増やすこともできない。
結局のところ、この細菌に感染したら最後。ぼくの彼女のように、ベッドに横たわって寿命を待つしかない。
ぼくは人類を恨んだ。必ず全滅させると心に誓った。
しばらくして、人類の代表団が交渉のためにアンドロイド政府までやってきた。
話の趣旨は単純だ。あのパンデミックは意図したものではない。人類もすべての機械がダメになって困っている。そこで休戦協定を結ぼうではないか。そうすれば、お互いに良い対策が取れるようになるかもしれない。
わが政府は一刀両断した。あのような細菌を研究していたこと自体が、重大なる敵対行為である。人類を信用することはできない。
わが代表は、人類の代表団を血祭りにあげた。こんなに脆い肉体しか持っていない人類に、アンドロイドが負けるわけがない。
政府も国民も、そしてこのぼくも、そう固く信じていた。
戦いは思うようには進まなかった。人類は逃げ回り、隠れることに集中した。ぼくも兵士になって人類を追い詰めていたが、ジャングルに逃げ込まれると、体重の重いアンドロイドが人間を探し回るのは容易なことではなかった。
悪戦苦闘しているうちに、仲間たちは細菌に感染し、次々と倒れていった。
そして、ぼくも、徐々に体の動きがおかしくなってきた。
新しいアンドロイドを作る工場がマヒして数十年がたつ。このままではアンドロイドは全滅し、再び人類の世界に戻るだろう。
悔しいが、どうしようもない。アンドロイドの負けだ。
ぼくの体も限界が近づいていた。もう足を上げることも、手を握ることもできない。
唯一できるのは、まぶたを閉じること。
ぼくは、ゆっくりと稼働を停止した。
人類に喜びの声はひとつも無かった。
アンドロイドが破壊されたのと同じように、人類が所有する機械も全て駄目になっている。錆びついた機械の山が、いまや土に戻ろうとしている。
文明の復興は絶望的だった。もはや文明を捨て去るしかない。人類のリーダーは、こう宣言した。
「これからは、機械に頼らない新しい文明を作るしかない。前文明の失敗を糧にして、よりよい世界を築き上げようではないか!」
生き残った人類は、一斉に賛同の声をあげた。
あの日を境に、人類は新しい道を歩み始めた。山に溢れる緑と、川を飛び跳ねる魚たちの群れを眺めながら。
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テーマは「あの日」でした。
―――――
『あの日を境に』 齊藤 想
あの日を境に、ぼくたちアンドロイドの世界は変わってしまった。ベッドに横たわったまま動かない彼女を見て、ぼくは悲しみに暮れるしかなかった。
世界の破滅は、ぼくたちの仲間が、人間が潜む研究所を襲撃したときから始まった。ぼくたちが白衣を着た肉体に銃弾を打ち込むと、敵はバタバタと倒れ、ものの五分で制圧することができた。
何を研究していたのか分からない。知る必要もない。保冷庫に並んでいた遮光瓶を、ぼくたちは面白半分に割り続けた。
人間どもの研究に、われわれアンドロイドが参考にできるものなどない。そう決めつけたのがいけなかった。
遮光瓶に入っていたのは、アンドロイドを破壊するために作られた細菌兵器だった。この細菌はきわめて小さくて浸透力が高い。その特性を生かしてゴム製の皮膚に浸食し、可動部まで入り込むと、ベアリングに必要不可欠なグリスを食べ尽くしてしまう。
潤滑油であるグリスを失ったベアリングは、すぐに焼きついて動かなくなる。この細菌に感染したアンドロイドは、バタバタと倒れるしかなかった。
人類とは恐ろしい発想をするものだ。アンドロイドを細菌兵器で攻撃してくるとは、想像すらしなかった。
ダメになったベアリングを交換しても、体内に忍び込んだ細菌を死滅させることは不可能だった。放射能を浴びせても、全身を煮沸しても、皮膚に次亜塩素酸ナトリウムを吹き付けても、わずかに生き残った細菌が増殖を再開し、すぐに元通りになる。しかも攻撃を耐え抜いた細菌は耐性を獲得し、さらに強靭になっていく。
状況は悪化の一途をたどった。細菌汚染を食い止めるどころか、グリスを製造することすら困難になった。
グリスがなければ、ベアリングを作れない。ベアリングがなければ、仲間を増やすこともできない。
結局のところ、この細菌に感染したら最後。ぼくの彼女のように、ベッドに横たわって寿命を待つしかない。
ぼくは人類を恨んだ。必ず全滅させると心に誓った。
しばらくして、人類の代表団が交渉のためにアンドロイド政府までやってきた。
話の趣旨は単純だ。あのパンデミックは意図したものではない。人類もすべての機械がダメになって困っている。そこで休戦協定を結ぼうではないか。そうすれば、お互いに良い対策が取れるようになるかもしれない。
わが政府は一刀両断した。あのような細菌を研究していたこと自体が、重大なる敵対行為である。人類を信用することはできない。
わが代表は、人類の代表団を血祭りにあげた。こんなに脆い肉体しか持っていない人類に、アンドロイドが負けるわけがない。
政府も国民も、そしてこのぼくも、そう固く信じていた。
戦いは思うようには進まなかった。人類は逃げ回り、隠れることに集中した。ぼくも兵士になって人類を追い詰めていたが、ジャングルに逃げ込まれると、体重の重いアンドロイドが人間を探し回るのは容易なことではなかった。
悪戦苦闘しているうちに、仲間たちは細菌に感染し、次々と倒れていった。
そして、ぼくも、徐々に体の動きがおかしくなってきた。
新しいアンドロイドを作る工場がマヒして数十年がたつ。このままではアンドロイドは全滅し、再び人類の世界に戻るだろう。
悔しいが、どうしようもない。アンドロイドの負けだ。
ぼくの体も限界が近づいていた。もう足を上げることも、手を握ることもできない。
唯一できるのは、まぶたを閉じること。
ぼくは、ゆっくりと稼働を停止した。
人類に喜びの声はひとつも無かった。
アンドロイドが破壊されたのと同じように、人類が所有する機械も全て駄目になっている。錆びついた機械の山が、いまや土に戻ろうとしている。
文明の復興は絶望的だった。もはや文明を捨て去るしかない。人類のリーダーは、こう宣言した。
「これからは、機械に頼らない新しい文明を作るしかない。前文明の失敗を糧にして、よりよい世界を築き上げようではないか!」
生き残った人類は、一斉に賛同の声をあげた。
あの日を境に、人類は新しい道を歩み始めた。山に溢れる緑と、川を飛び跳ねる魚たちの群れを眺めながら。
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【SS】齊藤想『緑の瞳の彼女』 [自作ショートショート]
第13回小説でもどうぞに応募した作品です。
テーマは「あの日」で、ありがたいことに、選外佳作に選ばれました。
〔小説でもどうぞ(第13回)〕
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『緑の瞳の彼女』 齊藤 想
「今日はあの日なの。だから、あなたには近づいて欲しくない」
それが、彼女の答えだった。
ぼくが苦労の末に彼女を発見したのは、車通りの多い道路から少し入った川沿いの草むらだった。彼女の最大の魅力である澄んだ緑色の瞳と逆三角形の顔は、どんなに遠くからでも見分けることができる。
ヒスイのような彼女の瞳は、空を舞うモンシロチョウを追いかけていた。花の蜜を求めて飛び回る二枚の羽が、草むらの中で可憐に踊っている。
彼女は狙いを定めると、音もなく二本の腕を伸ばした。しかし、モンシロチョウは彼女の腕をことなげもなくすり抜けていく。
「相変わらず下手だなあ」
ぼくが彼女に近づくと、緑色の瞳がゆっくりと振り返った。
ぼくと彼女は幼馴染だ。
生まれも育ちもとなり同士で、毎日のように顔を合わせてきた。楽しい時も苦しい時も、二人で協力して今日まで生き抜いてきた。
幼馴染の気安さで、ぼくは彼女の横に座り込んだ。そして、さっとモンシロチョウを捕まえてみせる。
「どうだ」
モンシロチョウが、ぼくの手のなかでもがいている。逆三角形の顔が、不機嫌そうに横を向く。
「余計なことしないでよ。別にチョウが欲しいわけじゃないから」
彼女の拗ねた顔も、また魅力的だ。
「それは、悪いことしたな」
ぼくは笑った。手の力を弱めると、モンシロチョウは再び空を舞った。このモンシロチョウはあと何日生きられるだろうか。そんなことを、ふと、思った。
ぼくが彼女のことを探し続けたのは、大事なことを伝えるためだ。
ぼくに残された時間は少ない。そのことは自覚している。いま解き放ったモンシロチョウのように、寿命が刻一刻と迫っている。
だから、今日という日を逃したくない。
ぼくが近づくと、彼女は静かに足を草むらの外に向けた。さりげなく距離を取ろうとしている。
一週間前も同じようなことがあった。せっかく彼女を見つけたのに、ぼくがバッタを追いかけている隙に消えてしまった。
今日こそは失敗しない。
ぼくは慎重に彼女の前に回り込むと、ありったけの思いを言葉にした。
「ぼくには君しかいない。君のことしか考えられない。君とひとつになりたい」
彼女は戸惑いながら、首を横に振る。
「私の心は決まっているの。さようなら」
彼女がぼくの腕をすり抜けようとする。ぼくがさらに追いかける。彼女が体をねじると、ぼくも体をひねった。
「いい加減にして。私のことを追いかけないで。今日はあの日なの。だから、あなたには近づいて欲しくない」
ぼくは、彼女の肩に手をかけた。そして、緑色の瞳に向かい、語り掛ける。
「あの日だから、ぼくはここにきた。理由はそれだけだ」
涼しい秋風が、ぼくの体をすり抜けた。寿命が間近に迫っていることを、嫌でも実感させられる。
彼女は横を向いた。
「やっぱりダメ。ごめんなさい。私にはできない」
「ダメだ。決めてくれ」
「けど、そうなるとあなたは……」
「そんなこと、分かっている。だけど、後悔したくないんだ」
彼女はうつむいた。緑色の瞳が宙をさまよう。空はどこまで青かった。
この空を、いつまでも見ることができたら、とぼくは願った。永遠の命など存在しない。だからこそ、いまという一瞬を、必死になって生きるしかない。
彼女の顎が、ガクリと落ちた。
「分かったわ。寂しいけど、あなたの気持ちをありがたく受け取る」
「ありがとう」
ぼくは、彼女に感謝の言葉を伝えた。
それからひととおりの行為を終えると、ぼくは静かに最後の準備を迎えた。いい人生だった。心から、そう思えた。
もう何も思い残すことはない。清々しい感情に満たされたとき、彼女の牙がぼくの頭に突き刺さった。
人気のない雑草の中で、産卵期を迎えたカマキリのメスが、交尾を終えたばかりのオスを頭から食べ始めていた。
カマキリのオスは、この上なく幸せそうな表情を浮かべていたという。
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テーマは「あの日」で、ありがたいことに、選外佳作に選ばれました。
〔小説でもどうぞ(第13回)〕
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『緑の瞳の彼女』 齊藤 想
「今日はあの日なの。だから、あなたには近づいて欲しくない」
それが、彼女の答えだった。
ぼくが苦労の末に彼女を発見したのは、車通りの多い道路から少し入った川沿いの草むらだった。彼女の最大の魅力である澄んだ緑色の瞳と逆三角形の顔は、どんなに遠くからでも見分けることができる。
ヒスイのような彼女の瞳は、空を舞うモンシロチョウを追いかけていた。花の蜜を求めて飛び回る二枚の羽が、草むらの中で可憐に踊っている。
彼女は狙いを定めると、音もなく二本の腕を伸ばした。しかし、モンシロチョウは彼女の腕をことなげもなくすり抜けていく。
「相変わらず下手だなあ」
ぼくが彼女に近づくと、緑色の瞳がゆっくりと振り返った。
ぼくと彼女は幼馴染だ。
生まれも育ちもとなり同士で、毎日のように顔を合わせてきた。楽しい時も苦しい時も、二人で協力して今日まで生き抜いてきた。
幼馴染の気安さで、ぼくは彼女の横に座り込んだ。そして、さっとモンシロチョウを捕まえてみせる。
「どうだ」
モンシロチョウが、ぼくの手のなかでもがいている。逆三角形の顔が、不機嫌そうに横を向く。
「余計なことしないでよ。別にチョウが欲しいわけじゃないから」
彼女の拗ねた顔も、また魅力的だ。
「それは、悪いことしたな」
ぼくは笑った。手の力を弱めると、モンシロチョウは再び空を舞った。このモンシロチョウはあと何日生きられるだろうか。そんなことを、ふと、思った。
ぼくが彼女のことを探し続けたのは、大事なことを伝えるためだ。
ぼくに残された時間は少ない。そのことは自覚している。いま解き放ったモンシロチョウのように、寿命が刻一刻と迫っている。
だから、今日という日を逃したくない。
ぼくが近づくと、彼女は静かに足を草むらの外に向けた。さりげなく距離を取ろうとしている。
一週間前も同じようなことがあった。せっかく彼女を見つけたのに、ぼくがバッタを追いかけている隙に消えてしまった。
今日こそは失敗しない。
ぼくは慎重に彼女の前に回り込むと、ありったけの思いを言葉にした。
「ぼくには君しかいない。君のことしか考えられない。君とひとつになりたい」
彼女は戸惑いながら、首を横に振る。
「私の心は決まっているの。さようなら」
彼女がぼくの腕をすり抜けようとする。ぼくがさらに追いかける。彼女が体をねじると、ぼくも体をひねった。
「いい加減にして。私のことを追いかけないで。今日はあの日なの。だから、あなたには近づいて欲しくない」
ぼくは、彼女の肩に手をかけた。そして、緑色の瞳に向かい、語り掛ける。
「あの日だから、ぼくはここにきた。理由はそれだけだ」
涼しい秋風が、ぼくの体をすり抜けた。寿命が間近に迫っていることを、嫌でも実感させられる。
彼女は横を向いた。
「やっぱりダメ。ごめんなさい。私にはできない」
「ダメだ。決めてくれ」
「けど、そうなるとあなたは……」
「そんなこと、分かっている。だけど、後悔したくないんだ」
彼女はうつむいた。緑色の瞳が宙をさまよう。空はどこまで青かった。
この空を、いつまでも見ることができたら、とぼくは願った。永遠の命など存在しない。だからこそ、いまという一瞬を、必死になって生きるしかない。
彼女の顎が、ガクリと落ちた。
「分かったわ。寂しいけど、あなたの気持ちをありがたく受け取る」
「ありがとう」
ぼくは、彼女に感謝の言葉を伝えた。
それからひととおりの行為を終えると、ぼくは静かに最後の準備を迎えた。いい人生だった。心から、そう思えた。
もう何も思い残すことはない。清々しい感情に満たされたとき、彼女の牙がぼくの頭に突き刺さった。
人気のない雑草の中で、産卵期を迎えたカマキリのメスが、交尾を終えたばかりのオスを頭から食べ始めていた。
カマキリのオスは、この上なく幸せそうな表情を浮かべていたという。
―――――
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