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【掌編】齊藤想『変わりゆく町』 [自作ショートショート]

第3回星々短編小説コンテストに応募した作品で、一次選考を通過しました。
テーマは「地図」です。

ショートショートや掌編において、比喩の使用は必要最低限にするのが基本です。比喩は言葉のリズムを崩し、使い古された比喩は文章の質を下げます。
あえて文章の流れを止めるとき、ひときわ優れた比喩が思いつたときだけ使うのが原則になります。
ですが、本作ではあえて平凡な比喩を多用しています。

具体的な技法はこちらの無料ニュースレターで紹介します。次回は12/5発行です。



・基本的に月2回発行(5日、20日※こちらはバックナンバー)。
・新規登録の特典のアイデア発想のオリジナルシート(キーワード法、物語改造法)つき!

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 『変わりゆく町』 齊藤想

 漠とした湖面を滑る風が、さざ波を引きつれながら、バス停でただずむ母娘を包み込んだ。空にはいまにも落ちてきそうな雪雲が垂れさがる。
 小さなくしゃみをした娘に、美佐子はポケットティッシュを渡す。娘は小さな鼻をティッシュで軽く拭う。美佐子は、娘からしわくちゃになったティッシュを受け取る。
 美佐子にとって、この町は死んだ町だった。
 かつては特産のワカサギとナマズの水揚げで栄えた集落も、いまや廃墟が立ち並び、思い出の小学校や中学校も統廃合が相次いでいる。
 帰りのバスを待つ愛娘のゆずきが、手持無沙汰を紛らわすかのように、膝の上で地図を広げた。その地図の上に、綿毛のような雪が舞い降りる。
 手袋に包まれたゆずきの小さな手は、地図に積もった雪を払うことはなく、両手を口元に添えた。指の隙間から、煙のような息が立ち上る。
 鼠色をしたコンクリートの街は徐々に雪に包まれ、いつしか白の割合が増えていく。
 あと三十分もすれば、この町は完全に雪に覆われてしまうだろう。
 美佐子はバスの時刻表を見た。まだ午後六時前だというのに最終便だ。
 この町の高齢化は著しい。若者は仕事のある都市部に吸い込まれ、残っているのは動くことのできない老人ばかり。この町に元気を取り戻すと立候補した政治家たちは、若者たちにまともな仕事を与えることができず、一時金を配るという安直な手段で若者を取り戻そうとして見事に失敗した。
 いまや、町役場でのアルバイトですら奪い合いだ。
 過去にすがり続けた美佐子の両親は、小さな畑を耕し続けながら、新年を迎えた一月一日に二人で自殺をした。残されていたのは「全てに絶望して」と書かれた遺書だけだった。美佐子は気が付かなかったが、母子家庭である美佐子に送金するために、両親は無理をして借金を重ねてきたようだ。土地も建物も、知らぬ間に他人の手に渡っていた。
 故郷に残るのは、両親の墓のみ。贖罪の意味を込めて、美佐子は両親の命日である正月に墓参りを続けてきた。
 冬になると雪が降るこの町では、バス停には待合室は欠かせない。しかし、予算不足のためか窓は割れ、屋根は破れたままになっている。鉄柱には所狭しと古びた風俗のチラシが貼られている。この町には風俗のチラシを見る人もはがす人もいない。怪しげな携帯の番号が、寒風に揺られてハチドリのようにはためく。
 美佐子は手袋の上からゆずきの手を覆った。手袋を挟んでいても、骨まで冷えているのが分かる。
 ゆずきは、道路の反対側にある四階建てのビルを見上げている。バブル時代の遺産で、いまや寂れ、テナント募集の看板がむなしく揺れる。
 このビルが廃墟になってから長い年月がたつ。元々は何の用途で建てられたのか、思い出すことすらできない。
 ゆずきの唇から、白い息が漏れた。
「少し雰囲気が変わったね」
 意図がつかめず、美佐子は問い返す。
「雪が積もってきたから、ということかな」
「ううん、そうではなくて」とゆずきは首を軽く横に振る。
「去年まであそこの角に小さなビルがあったじゃない。それが無くなっている」
 確かにそうだ。去年までは交差点の角に小さなビルがあった。その土地が更地になり、工事用のフェンスで覆われている。この出し殻のような街に新しいビルが建つことに、美佐子は驚いた。
「そのビルがお墓になればいいのにね」
 ゆずきが冗談を言う。両親の墓は、バス停から歩いて三十分以上もかかる。タクシーを使えば楽なのかもしれないが、シングルマザーである美佐子にとって、タクシーを使うことの経済的負担は大きい。
 年一回の墓参りとはいえ、贅沢する余裕はない。普通列車とバスを乗り継いで日帰りにするために、アパートを早朝に出て、夜の最終便で帰るのがいつものパターンだ。
 両親が自殺したのはゆずきが産まれる前だ。ゆずきは祖父母を写真でしか知らない。それでも、ゆずきに寂しい思いをさせないように、墓参りには欠かさず連れていき、両親の思い出を伝え続けた。
 素直なゆずきは話をよく聞き、いまでは、まるで生前の祖父母を知っているかのように話してくれる。
 けど、この墓参りも十三回忌でひと区切りだ。そろそろ終わりにして、この町との縁を切らなくてはならない。過去を断ち切らないと、いつまでも同じ場所に立ち止まってしまいそうな気がする。
 まるで、いつまでも変わらない、ゆずきの膝にある地図のように。
 美佐子は気持ちを切り替えて、ゆずきに答える。
「さすがにお墓はないと思うけど、何ができるのかママも楽しみ」
「寂れていく一方なのに、変だね」
 ゆずきは不思議そうな顔をした。雪はますます強くなっている。ゆずきの膝の上にある地図に雪がつもる。地図の記号が白く覆われていく。
「そういえば、三十年ぶりみたいね。三十年前といったら、私が生まれるずっと前。お母さんがまだ子供だった時代」
「えっ、何の話?」
「この雪だよ。三十年ぶりだって、さっきお母さんが言っていたじゃない」
 ゆずきは軽く笑った。ゆずきが笑うと、膝の上にある地図も揺れて、積もっていた雪が足元に流れて小さな山を作る。
 ゆずきの膝の上にある地図は、美佐子が持たせたものだ。
 インターネットでなんでも検索できる時代。だが、美佐子にはゆずきに携帯電話を持たせるだけの余裕がない。代わりに紙の地図を持たせている。美佐子が子供のころに作られた古い地図だ。
 ゆずきは、古い地図を貴重な資料と受け取っているようだ。扱いとしては、博物館の展示物と変わらない。
「あ、バス」
 雪の向こう側に、二つのライトが見えた。タイヤに巻かれたチェーンが、ガチャガチャと中世の騎士たちのような音を鳴らしながら、雪をかきあげている。
 美佐子はゆずきを立たせた。大きな車体が二人の視界を覆う。制帽を目深に被った乗務員が下りてくる。
 ゆずきが地図を畳むと、雪がすっと落ちていった。ゆずきは寒さを堪えかねたのかすぐに乗り込もうとして、乗務員に止められた。
「えーっと、名古屋行きのお客様はいますか?」
「名古屋行き?」
「ええ、そうですが」
 問い返す美佐子に、乗務員は不思議そうな顔をして返答した。
「ママ、間違えちゃったね」
 ゆずきがいたずらっぽく笑う。
 バスは細かな振動を残して走り去った。再び寂れた町が視界に広がる。
 美佐子は思った。長距離夜行バスは二十年前に廃止されたはず。それが名古屋行に限って復活したのだろうか。最近の名古屋は元気とはいえ、あまりに唐突だ。
「ねえねえ、ママ。よく見るとあの場所も変わったね」
 ゆずきが指す方向を見ると、小さな農産物センターがあった。美佐子の記憶では、この農産物センターは後継者がいないため、数年前に廃墟になっているはず。それが煌々と明かりがつき、真新しい建物になっている。
 だれかが経営を引き継ぎ、新しく塗りなおしたのだろうか。
 それにしても、いままでなぜ気が付かなかったのか。このバス停にきて十分はたっている。目に入るものは限られている。日が落ちて暗くなり、明かりがついたから目に入ったということだろうか。
 しばらくして、またバスが来た。
 前のバスと同じようにゆずきが乗ろうとして、また乗務員に止められた。
「広島行きです」
「また間違えちゃった」
 ゆずきは軽く舌を出した。美佐子はバスの時刻表を見た。何度も見た。横から見ても斜めから見ても、地域巡回バスの時刻表しかない。
 美佐子は出発しようとしている乗務員に尋ねた。
「すみません、本当に広島行きなのですか?」
「もちろんです。行先案内板を見てください」
 乗務員はフロントガラスの上部を指した。確かに広島行きと書いてある。だが、どこか書体も車体も古めかしい。
「いまは何年ですか?」
「そんなの五年に決まっているじゃありませんか」
「それは令和ですか、平成ですか」
 乗務員は笑った。話にならないと思ったのか、バスは走り去っていった。
「ねえねえ、ママ。あそこも変わっている」
 美佐子は見たくなかった。だが、見るしかなかった。すると、先ほどまではたしかに道路だったところが畑になっている。ありえない変化だ。
 美佐子はゆずきの体を抱きしめた。もしかしたら、二人して凍傷になりかけているのではないか。低体温症のせいで、認知障害が起こっているのではないか。
 美佐子は必死に娘を抱きめした。そして体をさする。
「どうしたの、痛い」
「死ぬよりいいでしょ」
「そんな、大げさなこと言わないでよ」
「だって、だって……」
 美佐子はバス停をぐるりと見渡した。雪が深くなるとともに景色が変わっていく。先ほどまで工事中だったビルは、いつの間にかに更地になっていた。農産物センターは新しくなる前の、先代の建物に化けた。
 恐ろしい勢いで、時代をさかのぼっていく。それをゆずきは無邪気に楽しんでいる。二人はとんでもない世界に入り込んでいる。
 これは地図だ。ゆずきに渡した地図の時代に遡ろうとしているのだ。地図の世界に引きづりこまれていく。
「ねえねえ、ママ……」
 もうやめて。目をふさぎたかったが、不思議な力が美佐子の意思に抗う。ただ気が狂わないようにと、正気を保つのがが精一杯だった。
 ふと気がつくと、地図が地面に落ちていた。深々と降り積もる雪は、またたくまに地図を埋めていく。地図が白く染まるともとに、町からビルが消えていく。過去に遡っていく。
「ねえママ、音が聞こえる」
 美佐子は耳を澄ませた。何かが遠くから近づいてくる。これはエンジン音ではない。それよりもっと懐かしい音。
「あ、電車!」
 灰色の雲に警笛が響いた。その警笛は雪のカーテンに乱反射し、美佐子の方向感覚を狂わせる。
「ここだよ、ここ」
 ゆずきは正面を向いていた、。そこは、ずっと昔に駅があった場所。つまりいま二人が立つバス停だ。
 一両しかないディーゼル車両は、雪をかき分けながら進み、二人の前にとまった。そこから老夫婦が下りてきた。
「あ、おじいちゃんとおばあちゃん」
 美佐子は眼を疑った。そこにいるのは、まぎれもなく両親だった。両親はよく来てくれたね、とゆずきのことを抱き上げた。初めて会うはずなのに、その様子は、昔から慣れ親しんだ孫と祖父母の姿だった。
「美佐子や、いままでありがとう。もう十分に尽くしてくれたから」
 母はそう言った。確かに耳に聞こえた。雪がさらに激しくなり、両親と電車をすっぽりと包み込んだ。両親は小さく手を振った。
 それが合図のように、突如として雪がやんだ。
 ゆずきは何事もなかったように、破れかかったバラックのベンチに座っている。疲れたのか、少し首を傾けている。
「寝たら風邪を引くよ」
 美佐子が体を揺り動かすと、驚いたのように目を見開いた。
「ねえねえ、いまねえ、すごい夢を見たんだよ」
 美佐子はバス停の周りを見た。古いビルはまだ建っている。農産物センターは閉鎖されたままだ。道路もちゃんと伸びている。
 美佐子は気が付いた。いままで三十年前にタイムスリップしていたのだ。それは両親が孫に会うために。
「お母さんも少し夢を見ていたんだ。それは、大人のままで三十年前に戻る夢」
「へえ、大人になっても夢をみるんだ」
「この雪のせいかもね」
 美佐子は綿毛のような雪を掬った。きっと、この結晶には不思議な力がある。まるで緞帳のように世界を覆いつくし、新しい世界を描く力が。
 その力を利用して、両親がやってきたのだ。三十年ぶりの大雪と、ゆずきの手もとにある古い地図を通して。様々な要素が重なり合った、小さな奇跡。
 小さなクラクションが聞こえてきた。二つのヘッドライトが近づいてくる。今度こそ間違いない。フロントガラスには、最寄り駅行の表示が輝いている。
 ゆずきの手にある地図は、まるで力を使い果たしたかのように、濡れてクチャクシャになっていた。

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【SS】齊藤想『ある胸像の一生』 [自作ショートショート]

本作はローマ帝国で哲人皇帝と言われた「マルクス・アウレリウスの騎馬像」の話がモチーフになっていています。
具体的な技法はこちらの無料ニュースレターで紹介します。次回は11/5発行です。



・基本的に月2回発行(5日、20日※こちらはバックナンバー)。
・新規登録の特典のアイデア発想のオリジナルシート(キーワード法、物語改造法)つき!

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『ある胸像の一生』 齊藤 想

 芸術家は、ヨーロッパにある帝国の皇帝の要求に頭を抱えた。
「ワシによく似た立派な胸像を作れ。手心を加えたら承知しないぞ」
 その皇帝は不細工な上に、短気かつ暴力的で有名だった。姿かたちを忠実に再現したら激怒されて首を切られかねない。かといって皇帝の命令に反しても処刑されてしまう。
 悩んだ芸術家は、皇帝とほどほどに似せてみたところ、誰にも似てないようで、誰かに似ている奇妙な胸像を完成させてしまった。
 皇帝は怒ったが、芸術家はすでに異国に逃亡していた。皇帝は芸術家の行方を追うことに必死になり、胸像のことなどすっかり忘れていた。

 数百年後、その帝国がアラブ人によって滅ぼされた。アラブ人たちは歴代皇帝の胸像を破壊したが、ひとつだけ正体不明の胸像が紛れ込んでいることに気が付いた。
 いったい彼は何者なのか。兵士たちが迷っていると、アラブの高官が叫んだ。
「このお方は、もしかしたらダディアーヌ3世ではないか。きっと、過去の敗戦時に奪われたものに違いない」
 なにしろ、この胸像は誰にも似てないようで、誰かに似ている。誰かが「ダディアーヌ3世だ」と言えば、そう見えてしまうのだ。
 この胸像が、昔の大王だと信じたアラブ人たちは、胸像を大切に持ち帰り、首都に壮大な寺院を建てて安置した。

 胸像に安息の日々は訪れない。百年後、アラブ人の首都を歴史的な大雨が襲った。
 洪水はアラブ人の都市を押し流し、寺院も破壊し、胸像は海岸線まで押し流された。
 この胸像を拾ったのは、海を挟んだ反対側に住むギリシャ人だった。
 なにしろ、この胸像は誰にも似ていないようで、誰かに似ている。おまけに、長年の風化で様々な色が付き、人種も時代も不明になっている。
 ギリシャ人は、この胸像に自分とよく似ている部分を発見してしまった。よく見ると、目元と耳の形がそっくりだ。つまり、この胸像は自分たちの先祖に違いない。
 胸像を拾ったギリシャ人は、これは神様からのプレゼントだと信じ、先祖伝来の墓地の入口に安置して、一族の守り神として大切に敬った。

 胸像の放浪はまだ続く。今度は第二次世界大戦の荒波が襲い掛かる。
 ギリシャで戦利品を探していたドイツ軍の兵士たちは、ギリシャ人の墓で奇妙な胸像を発見した。
「これは、我が総統ではないのか」
 胸像は長年の風化で鼻の下が崩れかかっており、それが総統のちょび髭に見えたのだ。
 なにしろ、誰にも似ていないようで、誰かに似ている胸像だ。ちょび髭が似ていると思えば、全てが総統に見えてしまう。
 胸像は兵士たちの手によって磨き上げられ、ちょび髭も「復元」させられ、ドイツに送られた。総統は大喜びして、ベルリンの大通りで飾られることになった。
 戦争が進み、一時期はヨーロッパを制覇する勢いだったドイツも敗勢となり、ベルリンにソ連軍がなだれ込んだ。
 そのとき、ソ連軍は砲弾によって倒れている胸像を発見した。その胸像を見て、ソ連軍は驚いた。
「これはスターリン閣下の胸像ではないか」
 例の胸像は、ドイツによって取り付けられたちょび髭のおかげで、今度はスターリンに見えてしまったのだ。
 なにしろ、誰にも似ていないようで、誰かに似ている胸像だ。髭がスターリンに見えれば、全てがスターリンに見えてしまう。
 こうして「スターリン像」は東ドイツに送られて、共産主義陣営の戦勝の記念碑として飾られることになった。
 ところがスターリンの人気が落ちるとともに、この胸像は忘れ去られた。おまけにちょび髭が取れたことで、誰もスターリン像とは思わなくなった。
 なにしろ、誰にも似ていないようで、誰かに似ている胸像だ。誰にも似てないと思われたら、その瞬間に誰でもなくなる。
 その後、ベルリンの壁が崩壊し、そのドサクサで胸像は行方不明となった。
 この胸像について、様々な噂がある。
 映画のセットとして使われた。小学校の校庭で薪を背負わされて本を読んでいる。過激ユーチューバーが視聴回数稼ぎのために壊した。などなど。
 だが、この胸像は、いまも世界のどこかで「発見」される日を待ち続けている。誰かが「○○に似ている」と言い始める、その日まで。

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【掌編】齊藤想『モナリザの微笑』 [自作ショートショート]

本作のアイデアは知識系です。
モナリザの微笑は、「デュシュサン・スマイル」と呼ばれているタイプだそうです。この笑みは不随意筋(自分の意識では動かせない筋肉)が関係しているため、意図的に作ることができず、人間が本当に嬉しい、本当に楽しいときにだけでるそうです。つまり、演技で作れない微笑だそうです。
具体的な技法はこちらの無料ニュースレターで紹介します。次回は11/5発行です。



・基本的に月2回発行(5日、20日※こちらはバックナンバー)。
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 『モナリザの微笑』 齊藤 想

 蟻川劇団に採用されたとき、陽菜は天にも昇る気持ちだった。
 主催者の蟻川天鵬は、採用する劇団員を有名人に例える癖がある。「原節子」や「サラ・ベルナール」といった、往年の名女優の名前を挙げることが多い。
 それなのに、なぜか陽菜には「モナ・リザのようね」と絵に例えてきた。しかも「女優としては、現代では評価されませんが」という余計なひとことつきで。
 けど自分で選んだ道だ。頑張るしかない。
 新人女優の陽菜は、セリフのない端役からスタートした。会社の従業員、美容院のスタッフ、役柄はいろいろだが、要するにその他大勢のひとり。
 少しでも自分を輝かせようと、大ぶりな演技でアピールするのだが、その度に蟻川天鵬に注意される。
「貴方はモナ・リザでいいの」
 陽菜は混乱した。モナ・リザのように、ミステリアスな笑みを浮かべればよいのか。
 陽菜は、先輩たちのアドバイスを聞き続けた。それも蟻川天鵬は気に入らないようだ。
「次回の舞台は休んだ方がいいわね」
 ついに陽菜は配役から外された。女優志望なのに、蟻川天鵬から命じられたのはチケット掛かりだった。
 蟻川劇団の看板女優は「クレオパトラ」に例えられたベテラン女優だった。彼女はまるでギリシャ彫刻のように目鼻立ちがハッキリしており、身長も高い。化粧をするとさらに舞台映えがする。
 彼女なら蟻川天鵬の考えが理解できるかもしれない。そう思って、陽菜は出演のために準備中の控室まで彼女を訪れた。
 劇団のエースは、舞台用のマスカラを盛りながら、そっけなく答える。
「そんなの分からないわよ。なにしろ天鵬先生は変人だからね」
 確かに蟻川天鵬は舞台界の異端児と言われている。次から次へと奇抜な舞台を用意しては評論家の度肝を抜き、呆れさせている。
 いまの舞台だって、背景は全てAIに描かせ、しかも背景がランダムで入れ替わる脚本無視の代物だ。
 落ち込む陽菜を、ベテラン女優が優しく包み込む。
「悩んでいても仕方がないわ。私だって、天鵬先生が私のことをクレオパトラに例えた意味が分かったのは最近なんだから」
「先輩の場合は、まさに美貌が……」
「違うわよ。クレオパトラは、美貌より知性で幾多の男性を魅了してきたの。だから、私もクレオパトラのように知性を磨きなさいという天鵬先生の教えだったの」
 それなら、陽菜が例えられたモナ・リザにも意味があるのだろうか。彼女はメイクの手を止めて、鏡の中の陽菜と向き合う。
「大丈夫。天鵬先生は見どころのないひとは採用しない。きっとチケット掛かりも陽菜さんのためを思ってよ」
 ベテラン女優の心づかいが、陽菜の胸に沁みる。ふっと、彼女の表情が緩んだ。
「陽菜さん。いまの笑顔、とても素敵よ。その笑顔を忘れないで」
 数か月後、陽菜はチケット掛かりを卒業して舞台に復帰した。なんと、次の舞台で陽菜は主役に抜擢された。
 新しい舞台の下見をしている蟻川天鵬に、陽菜はそっと近づいた。
「天鵬先生。モナ・リザの意味が少し分かった気がします」
 蟻川天鵬の目は舞台から動かない。
「モナリザの微笑みの秘密は、人間が本当に嬉しいときにだけ現れるデュシュサン・スマイル。この表情は不随意筋が作り出すので、演技では生み出せない。天鵬先生が私に求めているのは、このモナ・リザのスマイルだったのですね」
 蟻川天鵬が無言なのは、同意の証拠。
「ただ、現代では人工的な笑顔が氾濫しすぎて、逆に本物の笑顔であるモナ・リザがミステリアスと見なされている。だから、天鵬先生は、私は現代では評価されないかもしれない、と言ったのですね」
 蟻川天鵬は沈黙を続けている。彼の頭の中では理想の舞台が広がっている。それは現代劇か、前衛劇か。
「チケット掛かりにしてくれたのは、観客たちの自然な笑顔をたくさん見せるため。自分らしさを取り戻させるため」
「今度の舞台はねえ」
 ようやく、蟻川天鵬が口を開いた。
「人工的なものを排除したいの。舞台は人間が作り上げるという前提を打破したい。前衛中の前衛劇。その非常識な舞台に、陽菜はついてこれるのかしら」
「もちろんです」
 陽菜は笑顔で答えた。きっと、最高のデュシュサン・スマイルになっている。

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【掌編】齊藤想『子犬のウメ』 [自作ショートショート]

幸いなことにプラナスミューメ特別賞を受賞した作品です。

〔記事参照〕
https://takeaction.blog.ss-blog.jp/2024-03-27-1

〔主催者HP〕
https://mr-mrs-abe.com/

〔結果発表〕
https://mr-mrs-abe.com/blogs/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/mr-mrs-abe-arts-culture-prize-%E5%85%A5%E8%B3%9E%E8%80%85%E7%99%BA%E8%A1%A8

〔作品:『子犬のウメ』〕
https://mr-mrs-abe.com/pages/mr-mrs-abe-arts-culture-prize-winner-%E5%AD%90%E7%8A%AC%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%83%A1-%E9%BD%8A%E8%97%A4%E6%83%B3

この作品を書いたとき、ひとつ突き抜けた印象を持ったのですが、その理由をすぐには言語化できませんでした。
それから次の作品を書いているうちに、ようやく思い当たりました。
それは、「キャラに尖りをつける」ことが大事なのではないかと。

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【掌編】齊藤想『旧聞紙』 [自作ショートショート]

本作は愛媛新聞主催の超ショートショート2022用に書いてボツにした作品です。
超ショートショートはテーマが5つあり、本作では「新聞」を選んでいます。
本作をボツにした理由については、こちらの無料ニュースレターで紹介します。次回は10/5発行です。



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『旧聞紙』 齊藤想

 速報性ではネットにかなわない。発信力ではテレビや動画に負ける。八方ふさがりで右肩下がりの新聞業界の救世主として「旧聞紙」が創刊された。
 主要顧客は若い時代を回顧したい高齢者。彼らが喜びそうな古い情報を、ひたすら流すのだ。旧聞紙を手にした高齢者は、涙を流して過ぎ去りし日々を回顧し、ときには若いころを思い出して元気を取り戻した。
 旧聞紙は思わぬヒットとなった。取材の必要がなく経費も掛からないので、収益はまたたくまに改善した。
 いつしか新聞紙は旧聞紙を作るためだけに発行されるようになった。配達どころか印刷されることもなく、読者の目にふれることもない。下らない記事でも古くなれば価値がでる。むしろ、古くなれば喜ばれそうな記事をのみを集めるようになった。業界は旧聞になるまで記事を蓄積することを「熟成」と呼んだ。
 時代とともに価値を失うじめな取材や社会派の記事は流行らなくなった。そのような記事は利益を生まないからだ。
 いつしか、世の中から新聞が消えた。

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【掌編】齊藤想『逃げ名人』 [自作ショートショート]

第36回小説でもどうぞに応募した作品その2です。
本作のアイデアとしては『負ける名人』と同じ手法を活用していますが、ストーリー展開は山本周五郎の短編を参考にしています。
具体的な技法はこちらの無料ニュースレターで紹介します。次回は10/5発行です。



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 『逃げ名人』 齊藤想

 櫻井春蔵は、目の前にある川に、小石を水面を切るようにして投げつけた。小石は水面を跳ねるたびに勢いを失い、三回目で波紋を残して川面へと消えた。
 土手の向こう側には櫻井道場がある。この河原まで、竹刀を叩きあう若者たちの勇ましい掛け声が聞こえている。
 陽が傾き、夕方に近づいたころ、幼馴染の夕鶴がやってきた。夕鶴はうどん屋大膳の看板娘だ。大膳は道場の客で繁盛している。
 道場の周りには大膳だけでなく、様々な飲食店や雑貨屋が並んでいる。その様子は、まるでお寺の前に広がる門前町のようだ。
 春蔵は顔を動かさずに夕鶴に聞く。
「店はいいのか」
「ちょうど、ひと段落したところ。夕飯時前の息抜きとして、きてあげたの」
 そう言いながら、夕鶴は春蔵のように小石を川に向かって投げた。夕鶴の小石は一度も跳ねることなく、波の隙間に吸い込まれる。
「今日も春ちゃんの道場は大盛況ね」
 夕鶴のひとことに、春蔵は動きを止めた。
 春蔵は櫻井道場の三代目だ。だが、もっぱら指導だけで、一度も勝負に立ち会ったことはない。
 春蔵は物心ついたときから、祖父から剣術を仕込まれてきた。それなりの実力はあると自負している。ところが、祖父は春蔵に立ち合いを禁じた。まだ早い。そう言い続けているうちに、祖父は流行り病で遺言も残さずに死んでしまった。
 三代目を襲名した春蔵は、何度も他流試合に立ち会うと言ったのだが、祖父の代から修行している高弟たちに阻まれて、いまや「道場にいると看板破りが次から次へと現れて困る」との理由で、日が暮れるまで河原に追いやられている。
 そのような春蔵が、心を許せるのは幼馴染の夕鶴だけだった。
「夕ちゃん。おれが、世間からなんて呼ばれているか知っているか?」
「もうたくさん知っているわよ。神速の春蔵! 変幻自在の春蔵! 一撃の春蔵!」
「バカ。それは祖父が道場の宣伝のためにつけたあだ名だ。そのあだ名のおかげで、おれが凄い剣術家と誤解されている」
「お爺ちゃんは宣伝が上手かったからね」
「作られた伝説など迷惑だ。その伝説のせいで、立ち合いを禁じられて、いまや河原に追いやられている。いまでは、おれのあだなは逃げ名人だ。神速で逃げる春蔵、変幻自在に隠れる春蔵、一撃で逃走する春蔵」
「みんな上手いこと言うね」
「笑っている場合じゃない。だから、だれでも勝てると勘違いされて、こうして櫻井道場に端にも棒にもかからない素人剣士たちが集まってくる」
 土手の向こう側から、夕鶴の父親が娘を呼ぶ声がした。夕方のかき入れ時に向けた仕込みが始まるらしい。
 夕鶴は父親に返事をして立ち上がると、裾を軽く払った。
「けど、この界隈は、みんな春ちゃんに感謝しているのよ。櫻井道場のおかげで、周辺のお店は商売繁盛。これも春ちゃんが勝負を避けてくれるおかげ。だって、春ちゃんの本当の強さを知ったら、こんなにひとは集まってこないもの」
「本当の強さって、どっちの意味だが」
「もちろん、神速、変幻自在、一撃離脱の春蔵のほうよ」
「強いのか、弱いのか、どちらにも取れることを言うなよ。まあ、夕鶴のことだから、いい意味に取っておくよ」
 春蔵は大きく振りかぶると、小石を水平方向に投げた。小石は勢いを失くことなく水面を跳ね続け、向こう岸まで到達した。
 夕鶴が小さく拍手をする。
「ほら、これだけひとつのことに打ち込める春ちゃんが、弱いわけげないじゃない。お爺ちゃんは春ちゃんが勝ちづつけて天狗になることを恐れていただけよ、神速の春ちゃん」
「本当か」
「たぶん、だけど」
 夕鶴は笑いながら、うどん屋大膳に戻っていった。
 日が落ちた。
 河原が暗闇に包まれると、春蔵は手にしていた木剣を取り出した。祖父から教わった型をいちから繰り返しす。最初はゆっくりと、徐々に早く。そして落葉や柳の枝を相手に稽古を続けていく。
 汗がにじみ出るころ、月が高く上がった。
 いつしか櫻井道場から声は聞こえなくなり、うどん屋大膳から素人剣士たちの楽しそうな声が聞こえてくる。
 逃げ名人か。それもいいかもな。これもひとつの役割なのかもしれない。
 櫻井春蔵は道場への帰途についた。にぎわう商店街を通り抜けながら。

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【SS】齊藤想『迷人戦』 [自作ショートショート]

第36回小説でもどうぞに応募した作品その2です。
本作のアイデアはダジャレです。”名人”を”迷人”に変えています。

具体的な技法はこちらの無料ニュースレターで紹介します。次回は10/5発行です。



・基本的に月2回発行(5日、20日※こちらはバックナンバー)。
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 『迷人戦』 齊藤 想

 さあ、今年も迷人戦の季節がやってきました。第82期迷人戦は実況長沼と、解説中野でお送りいたします。
 さて、今期の挑戦者は挑戦権獲得リーグを全勝で駆け抜けた飲み会帰りのサラリーマンです。解説の中野さんにお聞きします。挑戦者の期待のほどはどうですか?
「これは迷人戦鉄板のシチュエーションです。どこに新しい工夫を入れてくるかですね」
 さあ挑戦者はほろ酔いというより泥酔状態で駅にたどり着いた。足元がおぼつかない。まるで駅中のブレイク・ダンス。
「これで終電に乗れるのでしょうか。これは期待できますね」
 終電がホームに滑り込んできた。挑戦者は辛うじて乗り込む。自宅の駅は3つ先。彼はそこまで起きていられるのか!
「アルコールと電車の揺れのダブルパンチは強力ですよ」
 挑戦者は頑張っている。まだ意識はある。まぶたが不規則に揺れる。瞳孔の動きが怪しい。黒目が瞳の中で迷子になっている。
「もう限界が近いですね」
 おーっと、ついに挑戦者は白目を向いてしまった。陥落です。ついに陥落しました。これは終点までノンストップだぁ。
「挑戦者の手元を見てください。カバンが消えています」
 おおっと、これは驚きました。解説の中野さんのご指摘の通り、挑戦者は先ほどまで抱えていたカバンを紛失してしまった。彼はその中に財布も定期も携帯も入れている。これで彼は無一文。完全無欠のおけら状態!
「これは無賃乗車ですね」
 挑戦者は終点で駅員に起こされた。駅名を見て慌てている。駅員にここは何県何市だと聞いている。
「通勤で使っている電車なのに、乗る路線を間違えたようです。さすがは迷人戦の挑戦者になるだけのことはあります」
 挑戦者は駅員室に連れていかれた。財布がないので運賃を払えない。携帯もないので家族との連絡も取れない。ついに警察を呼ばれてしまった。挑戦者はサイレンの音とともに駅から消えていく。これは帰宅できずにフィニッシュだ!
 解説の中野さん。挑戦者の戦いはいかがでしたか?
「手堅くまとめましたね。さすがです」
 さあ、次は現チャンピオンである迷人の登場だぁ。今年も圧倒的な力を見せつけて大台となる10期目の防衛を達成できるのでしょうか。今期の迷人は、なんとハイキングに挑戦です。
「迷人は防衛のために、新しい作戦を用意してきましたね。迷人の意気込みを感じます」
 ハイキングと言っても、ずいぶんと森が深いぞ。おまけに道もない。ただでさえ方向音痴なのに、迷人は生きて帰れるのか!
「どうやら、青木ヶ原樹海のようですね」
 おおっと、これは驚き桃の木山椒の木。迷ったら二度と出られないと言われる青木ヶ原樹海。その中に、迷人が脇目も振らずに突き進んでいく。これは自殺だ。完全なる自殺行為だ!
「迷人は道だけでなく、人生にも迷っているようですね」
 男独身五十歳。迷人が自分探しの旅に出る。青木ヶ原樹海で見つけるのは新しい自分か、それとも樹海で力尽きた白骨死体か。
「おや、迷人の先にだれかいますよ」
 おおっと、ここで迷人は自殺志願者と出会ってしまった。二人とも道だけでなく人生にも迷っている。ダブルの迷い。マイナス×マイナスの二乗はプラスになるのか、それともさらなるマイナスか。二人は意気投合して、自殺するために奥に進んでいく!
「どうも妙ですね。先ほどから同じところをぐるぐると回っている気がします」
 歩き続けても進まないのは、これが迷人9期防衛の力なのか。迷人は同行者に声をかけられて、わき道に入っていく。
「いよいよクライマックスですね」
 おおっと、二人は青木ヶ原樹海の奥地で自殺する予定が、なぜか国道に出てしまった。そこで親切なトラック運転手に声をかけられる。二人は相談して、名残惜しそうにトラックの助手席に乗り込んだ。迷人だけでなく、同行者も自殺を諦めたようです。奇跡だ。迷人が奇跡を生み出しました!
「規格外の方向音痴がふたりの命を救いました。迷っているということは、元に戻る可能性もあるということです。これが普通のひとなら、青木ヶ原樹海の奥地で命を落としていたことでしょう。さすがは迷人です」
 こうして迷人戦は幕を閉じ、防衛を果たした迷人には郊外の新築一戸建てがプレゼントされた。
 しかし、迷人は道に迷い続けて、いまだにプレゼントまでたどり着けないという。

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【掌編】齊藤想『負ける名人』 [自作ショートショート]

本作のアイデアは逆の言葉の繋ぎ合わせです。組み合わせ法で多用されている手法です。
「名人」というと「最強」「無敵」といったイメージがあるので、このイメージを逆転させています。

具体的な技法はこちらの無料ニュースレターで紹介します。次回は10/5発行です。



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 『負ける名人』 齊藤想

 これは、ぼくが子どもの頃の話だ。当時通っていた将棋道場に「わしは負ける名人だから」が口癖の風変わりな老人がいた。
 彼は白髪頭の痩身で、正確な年齢はだれも知らない。彼は将棋教室に通ってくる子どもたちの相手をして、嬉しそうに負ける。
 わざと負けるのは、傍目で見ているほど簡単ではない。だれもが分かるような悪手を指しては興ざめだ。彼は子どもたちの表情を見て、狙っている手を探りだし、相手が仕掛けた罠に華麗に飛び込んでいく。
 相手が攻めてこないときは、好手がある局面に誘導する。しかも、子どもたちのレベルに合わせて局面を選ぶ。まさに名人芸だ。
 だからこそ、子どもたちはいつも老人の周りに集まる。
 そのころ、ぼくはプロを目指して修行中だった。道場では大人たちも含めてほぼ敵なしで、県内の強豪に何度も胸を貸すような立場だった。
 そのぼくから見ても、老人の指し手は異彩を放っていた。指し手のひとつひとつにストーリーがある。相手の思考を読み解く能力がずば抜けている。
 最初のころ、ぼくは老人のことを本当に弱いと思っていた。しかし、自分が高段者になり、初心者に教える立場になると、老人の凄さが理解できるようになった。
 上手に負けることができない。初心者の指し手が読めない。相手のレベルに合わせた局面に誘導できない。
 プロを目指すぼくにもできないことを、老人はいとも簡単にやりとげる。
 老人はどれほど強いのだろうか。
 将棋プロへの第一歩である奨励会受験を控えた前日のことだ。ぼくは老人に真剣勝負を申し込んだ。
 営業終了時間が迫っていて、将棋教室に通う子供たちはいない。フロアには常連たちが数人残っているだけだった。
 常連たちが興味深そうに、二人を見る。老人はいつもの笑顔で答えた。
「わが道場のエースから対局を申し込まれるなんて光栄ですわ。冥途の土産に、一局教えてください」
 対局は持ち時間10分秒読み30秒。 
 ぼくは本気だった。将棋は一進一退の攻防が続く。お互いに持ち時間がなくなり、二人とも秒読みに追い込まれた。
 ぼくは負けるつもりだった。
 老人の棋力なら読みきれる妙手がある局面まで誘導して、見事に負けてみせる。それがぼくなりの勝負だった。
 ぼくは狙っていた局面に誘導した。しかし、その局面で改めて読み直すと、ぼくの側に妙手を上回る鬼手が用意されていることに気が付いた。
 ぼくは愕然とした。ぼくが誘導しようと思っていた局面は、老人が目指していた局面だったのだ。
 老人と目が合った。老人が静かな手つきで妙手を指す。観戦していた常連たちが唸る。
将棋指しとして、目の前にある鬼手を逃すことはできない。これは芸術だ。老人が用意した芸術作品を、ぼくの意思だけで壊すことはできない。
 ぼくは老人に導かれるようにして、鬼手を指した。常連たちが驚嘆の声を上げる。
 老人は秒読みギリギリまで考えて、そのまま投了した。いい将棋だった。そんな手が用意されていたとは、将棋の神様は面白い贈り物をするねえ。君は将棋の神様に愛されている。必ずプロになれる。本当にいい冥途の土産になりました。
 老人はそう一礼をすると、笑顔で駒を片付け始めた。
 「負ける名人」を上回ることはできなかった。呆然とするぼくのとなりに道場主が腰を下すと、老人のことを教えてくれた。
 実はあのひとは元奨励会員で、プロ入り間違いなしと言われた逸材だった。ところが妙に勝ち運がなくて、ここ一番になると必ず負けてしまう。昇段の一局を何度も逃した。
 それで彼はプロ入りを諦めて、今度は負けることに専念するようになった。不思議に思うかもしれないが、それで彼の才能が開花したんだ。あのころと比べると、ずっと将棋を楽しんでいる。指し手も輝いている。
 先ほどの将棋だけど、彼は本気だった。あの局面は偶然だ。「君は将棋の神に愛されている」は彼の本心だと思う。自分にはないものを、君に見付けたのに違いない。
 それだけ伝えると、道場主はぼくから静かに離れていった。
 十年後、ぼくは奨励会を突破してプロ入りを果たした。タイトルも獲得した。けど「負ける名人」の域には、未だにたどり着いていない。
 負ける名人は、子どもたち相手に、今日も楽しそうに負け続けている。

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【掌編】齊藤想『キャプテン・スーサイド』 [自作ショートショート]

ありがたいことに、第9回小説でもどうぞW選考委員版で佳作をいただいた作品です。

〔小説でもどうぞW選考員会版(第9回・結果発表、選考会)〕
https://koubo.jp/article/28415

〔作品〕
『キャプテン・スーサイド』 齊藤想
https://koubo.jp/article/28845

本作は映画『ペーパーマン』に登場するキャプテン・エクセレントを念頭に置いて書いています。性格と外見はキャプテン・エクセレントを借用しました。ただ、「本人に代わって自殺する」という設定はオリジナルです。
映画に登場するキャラを借用する場合についての具体的な技法は、こちらの無料ニュースレターで紹介します。
次回は10/5発行です!



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【SS】齊藤想『粗食の日』 [自作ショートショート]

第1回NIIKEI文学賞に応募した作品その3です。
これは子供のころの経験がベースになっています。

具体的な技法はこちらの無料ニュースレターで紹介します。次回は9/5発行です。



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『粗食の日』 齊藤 想

 月岡温泉の手作りグラスに、糸魚川の源流で取水された清水が注がれる。
 この水は、我が家の執事が日が昇る前に汲み上げ、地下室にあるマイクロフィルターで除菌し、完璧な温度管理をされた上で提供される。
 妙高市産の杉で作られた重厚な食卓に置かれる食塩は、佐渡島沖合の海洋深層水を塩田に撒き、伝統的な製法で煮詰める特殊な方法で作られている。この塩には豊富なミネラル分と適度な苦みがあり、高級料亭からの引き合いが途切れない。だが、この塩は我が家のためだけに製造されているので、丁重にお断りしている。
 阿賀野市の庵地焼のお茶碗に盛られている白米は、もちろん魚沼産コシヒカリだ。
 籾が壊れないように手作業で収穫され、ゆっくりと天日干しされ、食べる直前に精米される。手間の分だけひとつひとつの粒が輝き、炊き上げるとまるで生き物のように立ち上がる。
 塩と米だけの食卓を前に、父は宣言する。
「本日は粗食の日である。質素な食事を前に、先祖の苦労を思いを馳せるように」
 父の口上が終わるのを待って、ぼくは塩をまぶした白米を口に入れた。柔らかな甘みが口内で踊り、かすかな苦みのある粗塩がほほを引き締める。この上ない幸せな味。
 ぼくは心の中で叫んだ。
「粗食の日、最高!」

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