【掌編】齊藤想『希望の三文字』 [自作ショートショート]
第31回ゆきのまち幻想文学賞に応募した作品です。
テーマはいつものとおり「雪の幻想性」です。
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『希望の三文字』 齊藤 想
石崎杏南の頭に、「CBS」というアルファベット三文字が浮かんでは消える。その言葉をどこで聞いたのか思い出せないし、その意味も分からない。
杏南は十五年ぶりに、姉と一緒に故郷に帰ってきた。
七十歳になる姉は、十年前に緑内障で視力を失った。明るく闊達だった姉はふさぎこみ、ここ数年間は自室に引きこもる生活を続けている。私が介護をしなければ、一週間で飢え死にしてしまうだろう。
そんな姉が、突如として里帰りをしたいと言い出した。死ぬ前に故郷の雪を感じたいのだという。杏南が同意したのも、姉の気晴らしになればという思いからだった。
姉と外出するのは久しぶりだ。姉の手を引きながら、各駅停車を乗り継ぎ、最寄り駅からバスで三十分ほど揺られる。途中で聞きなれた停留所名がアナウンスされると、姉は子供のように喜んだ。
だが、姉に視力が残っていたら、うらぶれた光景に幻滅していただろう。二人の故郷は仕事がないため若者が流出し、残っていた老人たちも、まるで櫛の歯が欠けるように死んでいった。
集落が消滅したことを姉は知らないし、知らせる必要もない。姉の目が光を失っていたからこそ、故郷に連れてきたという面もある。このバス路線にしても、たまたま奥に温泉街があるから維持されているにすぎない。
二人がバスから降りると、姉は両手を湖水を掻き分けるように空気の中を彷徨せた。故郷の青空をつかみ取るかのように両腕で空気を抱きしめると、そのまま手のひらを自分の鼻頭に運んでいく。
ダウンジャケットの袖口から覗く姉の手首は、いままでの苦労が刻み込まれたかのように、深い皺が折り重なっている。
杏南は、不思議な動作を繰り返す姉を、じっと見守った。枯れ枝のような腕が、何度も目の前を往復する。
ようやく満足したのか、姉が杏南に洞のような目を向けた。
「雪の匂いがいつもより濃い。これこそ故郷の空気だ。きっと雪雲が空を覆っている。なあ、そうだろう?」
二人の頭上には、突き抜けそうな青空が広がっている。杏南は返事ができなかった。
「お姉さん、もう少し歩きましょうか」
「そうだね。そうすれば、誰かに会えるかもしれない。ここはあまりに静かすぎる」
姉の記憶は故郷がにぎやかだったころのままだ。思い出を壊さないように、杏南は黙り続ける。
こめかみの奥に針が刺さったような痛みが走った。また例の三文字。「CBS」が脳裏に浮かんでは消える。
だれから聞いたのか忘れたが、CBは人名の略称のはずだ。確かCはシャルル。Bはボネ。名前からしてフランス人だろうか。いったい彼は何者なのか。最後のSは何を意味するのだろうか。
杏南は奇妙な記憶を振りほどきながら、姉の手を引いて歩き続けた。突然、姉が杏南の体を押す。その瞬間、体のすぐ脇を、アウトドア用の大型車が通り過ぎた。姉は勘が鋭いので、ときおり、こうしたことがある。
車など走っていないものだと油断していた杏南は、肝を冷やした。
この界隈は自然が豊かなので、シーズンを問わずにキャンプ客がやってくる。岩魚目当ての渓流釣りの客も来る。
設備が整っているわけではないのだが、元々集落があっただけに平地が多く、キャンプを張る場所には困らない。法的には不法侵入にあたるのかもしれないが、柵はないし、どこまで私有地なのかも判然としない。ネットでも有名になっているらしく、だれもが勝手に使っている。
杏南は視線を道路に沿わせた。朽ちかけた主のない家たちが並んでいる。
昔はみんなが集まった大きな家も、江戸時代には蚕を買っていた巨大な小屋も、すべて自然の中に帰ろうとしている。
「そろそろ実家かねえ」
姉は言った。姉は実家を出てから三十年以上も経つはずなのに、記憶は正確だ。歩数を数えている様子もないのに、玄関の前で足を止める。
先に集落を飛び出したのは姉だ。
両親を早く亡くしたこともあり、姉は中学を卒業するとすぐに温泉街で働き始めた。そこで恋仲になった男性もいたが、恋が成就することなく別れると、姉は四十前に東京へ出る決心をした。
杏南は故郷に未練があったわけではないが、遠くに出るのが不安で、温泉街で皿洗いをしながら一人で実家に住み続けていた。新しい世界に出るのが怖かった。
実家はまだ残っていた。
玄関を開けて中に入ろうとしたとき、腕がチクリと痛んだ。虫に刺されたようだ。そのままかゆくなった目を擦ろうとしたら、姉に手の甲をしたたかに叩かれた。
「ヤケドムシかもしれない」
ヤケドムシは、このあたりではよく見られる1センチにも満たないアリのような姿をした虫だ。刺されると、名前のとおり火傷のような症状が現れる。
何度も刺されると厄介だ。姉は、杏南に早く家に入るようほどこした。
家といっても、雨露をしのげるだけで、電気もガスもない。昔使っていたかまどが残っているが、くべる薪もない。すでに捨てた家だ。掃除する気も起きない。
バスが来るのは二時間後だ。とりあえず目的を達したことで、杏南は安堵していた。
それにしても、なぜ、姉は故郷に帰りたいと言い出したのだろうか。先に故郷を捨てたのは姉ではないのか。
そう問い詰めると、姉の返答は意外なものだった。
「杏南にとりついた雪男を振り払うためよ。しかもフランス人の」
「フランス人の雪男?」
何がなんだかわからない。
姉の言うフランス人の雪男が「シャルル・ボネ」なのだろうか。そもそも雪男に名前などあるのだろうか。
「そろそろ雪が降り始めるころね」
姉はぽつりと言う。さきほどまで青空だった。そんなわけはない。
「窓を開けてごらん」
杏南は仕方なく腰を上げる。雨戸が締め切られているので足元が暗く、何度も躓く。都会の生活に慣れて、足腰が弱っているのかもしれない。
姉より若いのに、と杏南は苦笑する。
手探りで窓を開けると、突如として冷気が流れ込んできた。雪だ。いつ降り始めたのだろうか。
姉は言う。
「雪男の正体は、シャルル・ボネ・症候群」
杏南は問い返す。
「それは何?」
「視力障害者に特有な幻視の症状のこと。十八世紀の哲学者、シャルル・ボネが失明し、自らの視覚におきた現象を書き記したことから、その名前があるの」
「お姉さんは何を言っているの」と杏南は答えながら、怯えを隠すことができなかった。浮かび上がる記憶を閉じ込めようとしたが、もう抑え込むことはできそうにない。
杏南は「CBS」の三文字の意味を明確に理解した。これはシャルル・ボネ・シンドローム。つまり間違いなくシャルル・ボネ症候群の略称だ。
姉は説明を続ける。
「私がこの土地を離れたのは、ヤケドムシのせい。ヤケドムシには強力な毒があり、この毒が手についたまま目を擦ると失明する危険性がある。集落も小さくなり、この虫が家の近くにも出没するようになったのに気が付き、私は地元を離れた。杏南にも早く離れるよう勧めたのにあなたは残り、失明した」
あらゆる記憶が奔流のように杏南の体を流れていく。失明した杏南は姉に連れられて東京に出て、施設で働き始めた。
失明した直後から幻視の症状がでていたが、年月が経つとともに状況は悪化し、現実との区別がつかなくなっていた。
失明に続いて認知症も発症し、人生を悲観していた。施設に引きこもり続けた。
「だから私は言った。CBSをChallenge、Belive、Success、の三文字に変えなさい。挑戦すること、信じること、成し遂げること。絶望の三文字を希望の三文字に変えるの。
杏南はちゃんと真冬の故郷に帰ってこられたじゃない。大丈夫。あなたならできる。あなたの体にいるのは、悪い雪男。新しいCBSで、早く悪い雪男を追い払いなさい」
杏南は姉の顔に触れた。どこまでも優しい顔だ。まるで観音様のよう。もしかしたら本当に観音様ではないのか。
いまの杏南なら、挑戦すれば、必ず成し遂げられると、信じることができる。
胸の奥から力が湧いてきた。
石橋杏南の遺体が発見されたのは、春先になってからだった。
施設から抜け出し、無人の実家に帰っているとはだれも思わなかったのだ。
彼女の遺体は、先祖から伝わる観音様を胸に抱きしめ、これ以上ない安らかな死に顔だったという。まるで、希望に満ち溢れているかのように。
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『希望の三文字』 齊藤 想
石崎杏南の頭に、「CBS」というアルファベット三文字が浮かんでは消える。その言葉をどこで聞いたのか思い出せないし、その意味も分からない。
杏南は十五年ぶりに、姉と一緒に故郷に帰ってきた。
七十歳になる姉は、十年前に緑内障で視力を失った。明るく闊達だった姉はふさぎこみ、ここ数年間は自室に引きこもる生活を続けている。私が介護をしなければ、一週間で飢え死にしてしまうだろう。
そんな姉が、突如として里帰りをしたいと言い出した。死ぬ前に故郷の雪を感じたいのだという。杏南が同意したのも、姉の気晴らしになればという思いからだった。
姉と外出するのは久しぶりだ。姉の手を引きながら、各駅停車を乗り継ぎ、最寄り駅からバスで三十分ほど揺られる。途中で聞きなれた停留所名がアナウンスされると、姉は子供のように喜んだ。
だが、姉に視力が残っていたら、うらぶれた光景に幻滅していただろう。二人の故郷は仕事がないため若者が流出し、残っていた老人たちも、まるで櫛の歯が欠けるように死んでいった。
集落が消滅したことを姉は知らないし、知らせる必要もない。姉の目が光を失っていたからこそ、故郷に連れてきたという面もある。このバス路線にしても、たまたま奥に温泉街があるから維持されているにすぎない。
二人がバスから降りると、姉は両手を湖水を掻き分けるように空気の中を彷徨せた。故郷の青空をつかみ取るかのように両腕で空気を抱きしめると、そのまま手のひらを自分の鼻頭に運んでいく。
ダウンジャケットの袖口から覗く姉の手首は、いままでの苦労が刻み込まれたかのように、深い皺が折り重なっている。
杏南は、不思議な動作を繰り返す姉を、じっと見守った。枯れ枝のような腕が、何度も目の前を往復する。
ようやく満足したのか、姉が杏南に洞のような目を向けた。
「雪の匂いがいつもより濃い。これこそ故郷の空気だ。きっと雪雲が空を覆っている。なあ、そうだろう?」
二人の頭上には、突き抜けそうな青空が広がっている。杏南は返事ができなかった。
「お姉さん、もう少し歩きましょうか」
「そうだね。そうすれば、誰かに会えるかもしれない。ここはあまりに静かすぎる」
姉の記憶は故郷がにぎやかだったころのままだ。思い出を壊さないように、杏南は黙り続ける。
こめかみの奥に針が刺さったような痛みが走った。また例の三文字。「CBS」が脳裏に浮かんでは消える。
だれから聞いたのか忘れたが、CBは人名の略称のはずだ。確かCはシャルル。Bはボネ。名前からしてフランス人だろうか。いったい彼は何者なのか。最後のSは何を意味するのだろうか。
杏南は奇妙な記憶を振りほどきながら、姉の手を引いて歩き続けた。突然、姉が杏南の体を押す。その瞬間、体のすぐ脇を、アウトドア用の大型車が通り過ぎた。姉は勘が鋭いので、ときおり、こうしたことがある。
車など走っていないものだと油断していた杏南は、肝を冷やした。
この界隈は自然が豊かなので、シーズンを問わずにキャンプ客がやってくる。岩魚目当ての渓流釣りの客も来る。
設備が整っているわけではないのだが、元々集落があっただけに平地が多く、キャンプを張る場所には困らない。法的には不法侵入にあたるのかもしれないが、柵はないし、どこまで私有地なのかも判然としない。ネットでも有名になっているらしく、だれもが勝手に使っている。
杏南は視線を道路に沿わせた。朽ちかけた主のない家たちが並んでいる。
昔はみんなが集まった大きな家も、江戸時代には蚕を買っていた巨大な小屋も、すべて自然の中に帰ろうとしている。
「そろそろ実家かねえ」
姉は言った。姉は実家を出てから三十年以上も経つはずなのに、記憶は正確だ。歩数を数えている様子もないのに、玄関の前で足を止める。
先に集落を飛び出したのは姉だ。
両親を早く亡くしたこともあり、姉は中学を卒業するとすぐに温泉街で働き始めた。そこで恋仲になった男性もいたが、恋が成就することなく別れると、姉は四十前に東京へ出る決心をした。
杏南は故郷に未練があったわけではないが、遠くに出るのが不安で、温泉街で皿洗いをしながら一人で実家に住み続けていた。新しい世界に出るのが怖かった。
実家はまだ残っていた。
玄関を開けて中に入ろうとしたとき、腕がチクリと痛んだ。虫に刺されたようだ。そのままかゆくなった目を擦ろうとしたら、姉に手の甲をしたたかに叩かれた。
「ヤケドムシかもしれない」
ヤケドムシは、このあたりではよく見られる1センチにも満たないアリのような姿をした虫だ。刺されると、名前のとおり火傷のような症状が現れる。
何度も刺されると厄介だ。姉は、杏南に早く家に入るようほどこした。
家といっても、雨露をしのげるだけで、電気もガスもない。昔使っていたかまどが残っているが、くべる薪もない。すでに捨てた家だ。掃除する気も起きない。
バスが来るのは二時間後だ。とりあえず目的を達したことで、杏南は安堵していた。
それにしても、なぜ、姉は故郷に帰りたいと言い出したのだろうか。先に故郷を捨てたのは姉ではないのか。
そう問い詰めると、姉の返答は意外なものだった。
「杏南にとりついた雪男を振り払うためよ。しかもフランス人の」
「フランス人の雪男?」
何がなんだかわからない。
姉の言うフランス人の雪男が「シャルル・ボネ」なのだろうか。そもそも雪男に名前などあるのだろうか。
「そろそろ雪が降り始めるころね」
姉はぽつりと言う。さきほどまで青空だった。そんなわけはない。
「窓を開けてごらん」
杏南は仕方なく腰を上げる。雨戸が締め切られているので足元が暗く、何度も躓く。都会の生活に慣れて、足腰が弱っているのかもしれない。
姉より若いのに、と杏南は苦笑する。
手探りで窓を開けると、突如として冷気が流れ込んできた。雪だ。いつ降り始めたのだろうか。
姉は言う。
「雪男の正体は、シャルル・ボネ・症候群」
杏南は問い返す。
「それは何?」
「視力障害者に特有な幻視の症状のこと。十八世紀の哲学者、シャルル・ボネが失明し、自らの視覚におきた現象を書き記したことから、その名前があるの」
「お姉さんは何を言っているの」と杏南は答えながら、怯えを隠すことができなかった。浮かび上がる記憶を閉じ込めようとしたが、もう抑え込むことはできそうにない。
杏南は「CBS」の三文字の意味を明確に理解した。これはシャルル・ボネ・シンドローム。つまり間違いなくシャルル・ボネ症候群の略称だ。
姉は説明を続ける。
「私がこの土地を離れたのは、ヤケドムシのせい。ヤケドムシには強力な毒があり、この毒が手についたまま目を擦ると失明する危険性がある。集落も小さくなり、この虫が家の近くにも出没するようになったのに気が付き、私は地元を離れた。杏南にも早く離れるよう勧めたのにあなたは残り、失明した」
あらゆる記憶が奔流のように杏南の体を流れていく。失明した杏南は姉に連れられて東京に出て、施設で働き始めた。
失明した直後から幻視の症状がでていたが、年月が経つとともに状況は悪化し、現実との区別がつかなくなっていた。
失明に続いて認知症も発症し、人生を悲観していた。施設に引きこもり続けた。
「だから私は言った。CBSをChallenge、Belive、Success、の三文字に変えなさい。挑戦すること、信じること、成し遂げること。絶望の三文字を希望の三文字に変えるの。
杏南はちゃんと真冬の故郷に帰ってこられたじゃない。大丈夫。あなたならできる。あなたの体にいるのは、悪い雪男。新しいCBSで、早く悪い雪男を追い払いなさい」
杏南は姉の顔に触れた。どこまでも優しい顔だ。まるで観音様のよう。もしかしたら本当に観音様ではないのか。
いまの杏南なら、挑戦すれば、必ず成し遂げられると、信じることができる。
胸の奥から力が湧いてきた。
石橋杏南の遺体が発見されたのは、春先になってからだった。
施設から抜け出し、無人の実家に帰っているとはだれも思わなかったのだ。
彼女の遺体は、先祖から伝わる観音様を胸に抱きしめ、これ以上ない安らかな死に顔だったという。まるで、希望に満ち溢れているかのように。
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