【SS】齊藤想『目玉』 [自作ショートショート]
TO-BE小説工房第77回に応募した作品です。
テーマは「目」です。
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『目玉』 齊藤想
母はいつも目玉を舐めている。目玉をしゃぶる母の表情は幸せに満ちており、まるで飴玉をもらった幼児のように、口を膨らます。
母が目玉を口に入れるようになったのは、精神を病んだ五年前のことだ。きっかけは分からない。テレビでマグロの目玉料理が紹介されていたので、美味しそうと思ったのかもしれない。
最近は認知症も併発し、徘徊も頻繁になった。精神年齢は幼児まで退化し、隙あらば介護を続ける私の視線をかいくぐって、近所の公園や河原までいき、心ゆくまで目玉を舌の上で転がして喜んでいる。
徘徊する母を探し出し、幼児のように喜んでいる母を見るのは、娘として辛いものがある。優しかった母、料理が上手だった母、子供と遊ぶのが上手だった母。
私の記憶に残る母は、避けられない病気によって、いまやかつて母だった抜け殻しか残っていない。
母が今月五度目の徘徊にでのは、ある日の夕方のことだ。妙に北風の強い日だった。
私が目を覚ますと、室内には相応しくない寒風に頬を撫で続けていた。開けっ放しの玄関が、風に煽られて揺れている。
昨晩の疲れからついウトウトとしてしまったらしい。その隙に、母は私の目を盗んで徘徊に出てしまったのだ。
このまま放置したら、母はどうなるだろうか。交通事故にあうだろうか、それとも風邪を引くだろうか。いまの母なら、軽い肺炎でも命取りになりかねない。
母がいなくなったら、どんなに楽だろう。
私が母を探しに出かけるのは、家族としての義務なのか、それとも母への愛情が残っているからなのだろうか。
だんだんと自分の気持ちが分からなくなってくる。
母の行き先は限られている。まず公園を確かめ、次に河原に向かう。すると、橋の下で口をモゴモゴと動かしている母の姿が目に入った。夕方であることが幸いして、誰にも会わなかったようだ。
ほっとした半面、これから連れて帰る労力を思うと気が重くなる。母は散歩から帰るのを嫌がる犬のように、ぐずるのだ。
「ねえ、お母さん」
声をかけた瞬間、砂塵が舞った。私は片目をこすりながら、母に声をかける。
「なんだいなあ」
母は出がらしのような声を出した。私は横に座ると、幼児を相手にしているかのように優しく語りかける。
「そろそろ家に帰ろうか。暗くなっちゃったからね」
母は私の顔を確かめると、すぐに横を向いた。オモチャを取り上げられるのを恐れているか、口を固く結ぶ。
「そんなに大好きなの」
母は小さく首を縦に動かした。ただ、その動きはとても辛そうに見えた。
はた目から見れば、母は異常だ。母だけでなく、この状態を受け入れている私も精神を病んでいるのかもしれない。
私は片目を閉じた。視界から光が消える。
世界が暗闇に包まれると、いろいろな思い出が胸を交差する。
小学生だった私が交通事故にあい、顔面を強打したのがつい最近のように思える。母親が半狂乱状態になりながら、私のために必死になって最高の整形外科医を探し出し、手術を受けさせてくれた。
だからこそ、私は一部を除いて大きな後遺症もなく、見た目も損なわれず、普通と変わらない少女時代を送ることができた。
母にはとても感謝している。
だからといって、いまの母を放置することはできない。いつ警察の厄介になるのか分からない。
言葉が途切れると、母は泣いた。急に正気を取り戻したようだ。
「わたしだって、娘に迷惑をかけていることは分かっている。だから、これからはこれを舐める」
私は母が握りしめているものを見た。大きなガラス玉だ。
「飲み込んだら危ないよ。それに、ずっと手で持っていたら雑菌だらけになるし」
「そんなの分かっている。だから何度も洗って、洗ってゴシゴシと」
老母は子供のように泣き出した。老母も苦しんでいたのだ。私は小さくなった母の背中を撫でる。
「これからも目玉を舐めてもいいから、せめて私の目を盗んで外出することだけは止めて欲しいな。もし舐めたくなったら、何度でも貸してあげるから」
母は何度も頷いた。
私は母から目玉を受け取ると、ほっとした気持ちで、左の眼窩に義眼を押し込んだ。
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『目玉』 齊藤想
母はいつも目玉を舐めている。目玉をしゃぶる母の表情は幸せに満ちており、まるで飴玉をもらった幼児のように、口を膨らます。
母が目玉を口に入れるようになったのは、精神を病んだ五年前のことだ。きっかけは分からない。テレビでマグロの目玉料理が紹介されていたので、美味しそうと思ったのかもしれない。
最近は認知症も併発し、徘徊も頻繁になった。精神年齢は幼児まで退化し、隙あらば介護を続ける私の視線をかいくぐって、近所の公園や河原までいき、心ゆくまで目玉を舌の上で転がして喜んでいる。
徘徊する母を探し出し、幼児のように喜んでいる母を見るのは、娘として辛いものがある。優しかった母、料理が上手だった母、子供と遊ぶのが上手だった母。
私の記憶に残る母は、避けられない病気によって、いまやかつて母だった抜け殻しか残っていない。
母が今月五度目の徘徊にでのは、ある日の夕方のことだ。妙に北風の強い日だった。
私が目を覚ますと、室内には相応しくない寒風に頬を撫で続けていた。開けっ放しの玄関が、風に煽られて揺れている。
昨晩の疲れからついウトウトとしてしまったらしい。その隙に、母は私の目を盗んで徘徊に出てしまったのだ。
このまま放置したら、母はどうなるだろうか。交通事故にあうだろうか、それとも風邪を引くだろうか。いまの母なら、軽い肺炎でも命取りになりかねない。
母がいなくなったら、どんなに楽だろう。
私が母を探しに出かけるのは、家族としての義務なのか、それとも母への愛情が残っているからなのだろうか。
だんだんと自分の気持ちが分からなくなってくる。
母の行き先は限られている。まず公園を確かめ、次に河原に向かう。すると、橋の下で口をモゴモゴと動かしている母の姿が目に入った。夕方であることが幸いして、誰にも会わなかったようだ。
ほっとした半面、これから連れて帰る労力を思うと気が重くなる。母は散歩から帰るのを嫌がる犬のように、ぐずるのだ。
「ねえ、お母さん」
声をかけた瞬間、砂塵が舞った。私は片目をこすりながら、母に声をかける。
「なんだいなあ」
母は出がらしのような声を出した。私は横に座ると、幼児を相手にしているかのように優しく語りかける。
「そろそろ家に帰ろうか。暗くなっちゃったからね」
母は私の顔を確かめると、すぐに横を向いた。オモチャを取り上げられるのを恐れているか、口を固く結ぶ。
「そんなに大好きなの」
母は小さく首を縦に動かした。ただ、その動きはとても辛そうに見えた。
はた目から見れば、母は異常だ。母だけでなく、この状態を受け入れている私も精神を病んでいるのかもしれない。
私は片目を閉じた。視界から光が消える。
世界が暗闇に包まれると、いろいろな思い出が胸を交差する。
小学生だった私が交通事故にあい、顔面を強打したのがつい最近のように思える。母親が半狂乱状態になりながら、私のために必死になって最高の整形外科医を探し出し、手術を受けさせてくれた。
だからこそ、私は一部を除いて大きな後遺症もなく、見た目も損なわれず、普通と変わらない少女時代を送ることができた。
母にはとても感謝している。
だからといって、いまの母を放置することはできない。いつ警察の厄介になるのか分からない。
言葉が途切れると、母は泣いた。急に正気を取り戻したようだ。
「わたしだって、娘に迷惑をかけていることは分かっている。だから、これからはこれを舐める」
私は母が握りしめているものを見た。大きなガラス玉だ。
「飲み込んだら危ないよ。それに、ずっと手で持っていたら雑菌だらけになるし」
「そんなの分かっている。だから何度も洗って、洗ってゴシゴシと」
老母は子供のように泣き出した。老母も苦しんでいたのだ。私は小さくなった母の背中を撫でる。
「これからも目玉を舐めてもいいから、せめて私の目を盗んで外出することだけは止めて欲しいな。もし舐めたくなったら、何度でも貸してあげるから」
母は何度も頷いた。
私は母から目玉を受け取ると、ほっとした気持ちで、左の眼窩に義眼を押し込んだ。
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by Ernestboowl (2021-09-01 21:58)