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【掌編】齊藤想『闇夜からの挨拶』 [自作ショートショート]

小説でもどうぞ第5回に応募した作品です。
テーマは「賭け」です。

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『闇夜からの挨拶』 齊藤想

 月が煌々とアスファルトを照らしている。
 しがないサラリーマンの山田は、35年ローンで手にいれた念願のマイホームを目指して、とぼとぼと家路についていた。
 サラリーマン生活も二十五年。希望を失った中年らしく、山田はくたびれたカバンを小脇に抱え、履き崩れた革靴で引きずるように歩いていたら、急に背中越しに声をかけられた。
「おーい、ヤマダじゃないか」
 親しげな口調に山田は思わず振り返る。
 目に入ったのは見知らぬ若い男性。襟を立てた開襟シャツに、胸元には金ネックレスをぶらさげている。
 山田にはチンピラの知り合いなどいない。しかし、男性はますます馴れ馴れしく近づいてくる。
「やっぱりヤマダだ。こんなところで会うなんて奇遇だなあ。お前、十年ぶりぐらいじゃないか」
 山田は迷った。
 この暗闇だ。自分が男を忘れしているだけかもしれないし、逆にチンピラがどこかの知り合いと勘違いしているのかもしれない。
 もっと顔を見せようと男に近づくと、チンピラは急に表情を変えた。
「ヤマダ~」
 男の手には、サバイバルナイフが握られている。男の右足がアスファルトを蹴る。ナイフが目の前の空気を切った。
「落ち着け、人違いだ」
 山田は両手を扇風機のように回したが、男の勢いは止まらない。振り上げられたサバイバルナイフが、獲物を求めるオオカミのように迫る。
 こいつは危険だ。躊躇していられない。
 山田は男にカバンを投げつけると、一瞬できた隙に、踵を返して全速力で駆けだした。
「変質者に襲われている。早く警察を呼んでくれ」
 山田は住宅街をスピーカーのように叫びながら駆け続けた。両足がもつれる。背中から意味不明な唸り声が迫る。かなり早い。そして近い。
 山田はナイフが首筋に突き刺さる恐怖に震えながら、急カーブで切り返すと、目についた公園に走りこんだ。植え込みを飛び越え、反対側にあるトイレを目指す。
 このまま走り続けても、追いつかれるのは時間の問題だ。逃げ切れない。戦っても勝てるわけがない。だが、トイレの個室に立てこもれば、そのうち警察が助けに来てくれるかもしれない。
 ろくに掃除されていない臭いトイレが、山田の唯一の希望だった。
 男は山田の急な方向転換に、少し足をもつれさせたようだ。少し距離が広がる。
 この僅かな猶予が、山田に味方した。
 山田はトイレに駆け込むと、ひとつだけ空いていた個室に滑り込んだ。内側から鍵をかけて、息をひそめる。
 山田が逃げ込んだ直後に、けたたましい足音がやってきた。
 男は、個室がすべて閉まっていることに戸惑っているようだ。せわしない足音が行ったり来たりする。
 この時間帯にトイレの個室が何に使われているのか想像できる。だが、いまの状況となれば幸運の女神たちだ。感謝するしかない。
 警察のサイレンの音が聴こえてきた。サイレンは公園の近くで止まると、しばらくして重苦しい声がトイレの中に響いた。
「警察だ。助けを呼んだひとは、早く出てきなさい」
 助かったと山田は思った。体から力が抜ける。個室から出ようとしてカギに手をかけたところで、ふとした違和感が頭をよぎった。
 そもそも、なぜ警察は迷わずに公園のトイレにまでたどり着けたのだろうか。
 山田は「警察を呼んでくれ」と叫びながら走り回ったが、公園のトイレに入ったのはたまたまだ。警察が知るわけがない。
 パトカーのサイレンだってスマホを使えば再現できるし、そもそも別件で通りかかっただけかもしれない。その偶然を利用し、男が声音を変えて警察を語っている可能性だってあるのだ。
「何も異常がないなら帰りますよ」
 ここで個室からでるべきかどうか。他の個室の利用者が外に出ることはないだろう。だが、このチャンスを逃したら、いずれ変質者に嬲り殺されるのは間違いない。個室といっても、変質者が本気を出せば終わりなのだ。
 ライターをする音がした。これは警察が煙草を吸うためか、それとも変質者がトイレに火をつけるためか。
 外にいる警察は本物か偽物か。
 どちらに賭けるべきか、山田は決断を迫られていた。

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