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『エスカレーター』  平渡敏さん [ショートショートの紹介!]

ショートストーリーブログトーナメント(テーマ『エスカレーター』)で見事に優勝を果たした平渡敏さんの『エスカーレーター』を紹介します。

【結果発表ページ】
https://novel.blogmura.com/tmt_rank684.html

また、現在はテーマ「袖」で参加作品を募集中ですので、ぜひとも参加してください。

【袖にまつわるショートストーリー】
https://book.blogmura.com/tment_ent/9_752.html

【平渡敏のブログ】
http://hiratobin.blog109.fc2.com/

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『エスカレーター』  平渡 敏
 
 
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 「課長のバカヤロー。偉そうに威張りやがって……」
 会社からの帰りに一杯ひっかけて、駅の長いエスカレーターに乗ったところで、つい愚痴が声に出てしまった。
「しまった」と周りを見回したら、自分のすぐ前にくたびれた感じの中年オヤジがいた。
 聞かれてしまっただろうか? まぁいいや、本当のことなんだから。しかし変だぞ。さっきは俺の前に人なんかいなかったはずなのに。いつの間に現れたんだろう。
 そんなことを考えているうちにエスカレーターは上のフロアに近付いてきた。すると、前のオヤジの体がだんだんと小さくなってきた。まるでエスカレーターの段差がなくなってくるのに合わせるかのように。そして、オヤジは乗降口の隙間に吸い込まれるようにして消えてしまった。
 俺は自分の目を疑った。あれは幻覚だったのだろうか。そんなに酔っているつもりもなかったのだが……。何だか納得がいかないまま家に帰ったが、家に帰ってかみさんに怒鳴られているうちに、いつしか忘れてしまった。

 翌日の帰宅時、しらふの俺は前日のことを思い出しながらエスカレーターに乗った。すると、予想どおりというべきだろうか、またしてもあのオヤジがいきなり俺の前に現れた。しかも、今度は奴の方が酒を飲んでいるらしく、真っ赤な顔で気持ちよさそうに鼻歌を歌っている。音程がデタラメなのでよく分からないが、スーダラ節のようだ。
「ご機嫌ですね」
 何だか操られたように声をかけてしまった。
「いやー、人生ってホント楽しいねぇ」
 オヤジは振り向いて、実に幸せそうに返事をしてきた。そんなこと言われても俺のはそんなに楽しくもないんだが……。
「そうですね。楽しくお酒を飲めるっていいですよね」
 俺はお愛想を言って、少しゆがんだ笑いをオヤジに向けた。オヤジは満面の笑みを浮かべながら小さくなって、手を振りながら乗降口に飲み込まれていった。
 うーん、幻覚ではなさそうだが、さて、それでは一体……。

 更に翌日。注意して見ていると、オヤジはミニサイズで乗降口からはき出されてきて、エスカレーターの段差が大きくなるのに比例するように大きくなっている。道理で突然現れたように見えるわけだ。
 オヤジは頬についた口紅のキスマークをハンカチで拭きながら、俺の方に振り向いて話しかけてきた。
「こんばんは」
「あっ、こんばんは。あの……、あなたは一体何者なんですか?」
 色々と聞きたいことはあったが、とりあえず根本的な質問をしてみた。
「もうおわかりでしょう。私はエスカレーターの住人です」
「エスカレーターの?」
「そう、なかなか楽しい所ですよ」
 オヤジはうっとりした目を上の方に向けた。おおかた先ほどの情事を思い出してでもいるのだろう。俺は少しうらやましくなった。かみさんとは随分と長い間セックスレスだし、浮気をするような相手もいない。
「そんなにいい所なんですか?」
「ええ、あなたもおいでになりますか?」
「えっ、いいんですか? 行きます」
 思わず即答してしまった。まあいいだろう、会社にも家族にも別段未練があるわけではないのだから。
 エスカレーターが上階に近づいた。
 すると驚いたことに、オヤジは小さくならず、上のフロアですたすたと降りていってしまった。その代わりに俺が小さくなって乗降口に吸い込まれた。
 エスカレーターの中は暗くてじめじめしている。俺は急に不安になって周りを見回した。中には小さな部屋があってどうやらここで寝起きするらしい。部屋の隅には口紅が転がっている。
 俺は全てを理解した。
 やられちまったな。まぁ仕方がない。俺もカモを探すしかないのだろう。あのオヤジがやったみたいに。

(終わり)
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さてさて、ショートショートの猛者である平渡さんと一緒に、小噺集を作ろうと思っています。
一休とんち大賞応募作……と最初は限定していましたが、いまのところ参加者が2名(4作品)だけなので、間口を広げて小噺であればOKにしたいと思います。
電子書籍は明日か明後日にUPする予定ですが、UP後も随時、参加を受け付けます。
ということで、お気軽にお声かけをしていただければ助かります!

【該当記事】
http://takeaction.blog.so-net.ne.jp/2011-09-29

『違いがわからない』  田辺ふみさん [ショートショートの紹介!]

今日はSFマガジンの常連である田辺ふみさんの作品を紹介します。
田辺ふみさんのHPの存在を知ったのは、川瀬敏司さんが平渡敏さんのブログに田辺ふみさんのHPを紹介するコメントを残してくれたおかげです。
出会いの場を提供していただきありがとうございます。

田辺ふみさんはSFマガジンへの掲載歴もありますし、何度も選評に載っているのですが、そのなかであえてボツ作品を紹介したいと思います。
電子書籍パブーに選評作品も併せて掲載されていますが、紹介する『違いがわからない』は選者の趣味に合わなかっただけで、もっと高く評価されてもいい作品だと信じているからです。

ということで、ぜひとも、田辺ふみさんの作品をお楽しみください!

【田辺ふみさんのHP 日記(酒にまんがに本)】
 http://blog.goo.ne.jp/fumioyadi

【電子書籍パブー】
 http://p.booklog.jp/users/fumioyadi


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『違いがわからない』  田辺ふみさん


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 また、古い映画を見た。
 「南極物語」という映画だ。
『海王星と似ているだろう。氷でおおわれて寒くて。だから、古い映画だけど動画を持ってきたんだ』
 キシダの言葉を思い出す。
 キシダは今頃、どうしているのだろうか。
 映画の中では観測隊に犬たちが置き去りにされるが、後で隊員たちと再会する。
『私は犬と同じなんですね』
『違うよ。犬とはまるで違うじゃないか』
 確かに私の姿形は犬よりキシダに似ている。でも、私は人間じゃない。
 人間と私の違いは何なのだろう。それがよくわからなかった。
『中身が違うんだよ』
 そう言われても、自分の中身は開けて見ることができるが、人間の中は開けてみることが許されなかった。人間は中を開けたりすると、動かなくなるらしい。
 私だって、自分の動力部分を開けることは許されていない。動かなくなるから駄目だと言われた。
 人間と同じじゃないのか?
 わからない。
 疲れているのかもしれない。
 仲間が減り、とうとう私一人になってしまった。そのため、働く時間が増えた。もう、この基地の清掃が行き届かなくなっている。
 故障した装置があるが、もう修理する部品もない。動力が切れて動かなくなったものもある。
 凍り付く部屋がどんどん増えてきて、地球の温度を保っているのはもうこの部屋だけだ。
 なんだか、疲れてしまった。
 疲れるはずがないのに。
 だから、今日はこうやって、古い映画を見て、ぼんやりと過ごしている。
 私はやはり犬なのではないだろうか。
 だから、基地に残されたのではないだろうか。
 人間たちはみんな地球に帰ったのに。
『大丈夫、あなたたちは犬じゃないから、死んだりしない。待ってて。私は戻って来ることができなくても、他の人間たちが必ず来るわ』
 そう言ったのは誰だっただろう。最近、思い出せないことが多いような気がする。
 ……思い出した。ミヤだ。
 でも、誰も来ない。
 まだ、待たないといけないのだろうか。
 いつまで待てばいいのだろう。
 死ぬと動かないの違いは何だろう。
 私たちは死なない。
 ミヤはそう言っていたのに、仲間たちはもう動かない。これは死と何が違うのだろう。
 私には違いがわからない。
 私はやはり犬と違うのではないのだろうか。
 だから、この基地には誰も迎えに来てくれないのだ。
 きっとそうだ。
『このまま、この基地で暮らせばいいのに。なぜ、地球に帰るんですか』
 そうたずねたのは、キシダが険しい顔をしていたからだ。
 顔の違いはわかる。
 人間とコミュニケーションを取るには表情の違いがわからなくてはならない。
 だから、私のデータベースにはさまざまな表情が登録され、その時にどう行動したらいいかも登録されている。
 キシダのそんな険しい顔は初めて見た。だから、キシダは本当は地球に帰りたくないのだと思った。だから、たずねたのだ。
『地球で戦争が始まったからだよ』
『戦争?』
 それも動画で見たことがあった。
 たくさんの人間が死ぬ。よくないこと。
『死ぬかもしれないから、地球に戻らない方がいいですよ』
 そう言うと、キシダは笑った。
 データベースに載っていない笑いだった。
 どう行動したらいいか、わからず、固まっていると、キシダは私の手を握った。
『心配してくれてありがとう』
 そう言われた時の行動は決まっていた。
『どういたしまして』
 そう答えた。
『僕もロボットだったら、よかったのにな。そうしたら、君たちとこの基地で暮らすのに』
 キシダはそう言ったが、地球に帰っていった。私と仲間たちを残して。
 そして、戻ってこない。
 ミヤと誰かの会話を思い出す。
『私は戻って来ることができなくても、他の人間たちが必ず来るわ』
『人間が絶滅しない限り、来るよ』
『やめてよ、冗談じゃない』
 冗談じゃなかったのだろうか。
 私にはわからない。


(終わり)
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 ぼくがこの作品を読んだとき、滲んだ水彩画のような印象を持ちました。北野武監督は映画で画面に青いトーンをかけますが(『キタノブルー』と呼ばれています)、まさにそのような感じです。
 とても印象深い佳作だと思います!


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『傘、入りませんか?』 りんさん [ショートショートの紹介!]

今日はりんさんの恋愛ファンタジー、『傘、入りませんか?』を紹介します。
実はりんさんの作品を紹介するのは4度目です。
りんさんは素晴らしい掌編を多数書かれているので、いくら紹介してもしたりません!

ということで参考までに、過去の記事を紹介いたします。


『ゆきおんな』
http://takeaction.blog.so-net.ne.jp/2010-12-05

『宇宙生命体の話をしよう』
http://takeaction.blog.so-net.ne.jp/2010-12-18

『ハラミツタさんの絵に、リンさんが物語をつけてくれました!』
http://takeaction.blog.so-net.ne.jp/2011-07-08


上記の記事も、ぜひとも閲覧してください。
もちろん、りんさんのHPにはたくさんの掌編が掲載されています。
ぜひともHPにも遊びに行ってください!


【りんさんのHP りんのショートストーリー】
 http://rin-ohanasi.blog.so-net.ne.jp/

【傘、入りませんか?】
 http://rin-ohanasi.blog.so-net.ne.jp/2011-08-22


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『傘、入りませんか?』  リンさん


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わたしは誰でしょう。
傘に決まっているだろうって? そうです。わたしは傘です。
だけど本当は傘じゃありません。これは、仮の姿です。
知りたいですか?わたしの正体。知りたいでしょう。

じつはわたしは、恋のキューピットです。
もうお分かりですね。相合い傘です。それこそ、恋の始まりじゃないですか。
そんなわけでわたしは、このサエない30男に恋の相手を探す使命を与えられたのです。

男は人事部の青木君。
社内恋愛を夢見るものの、内気な性格が邪魔をしてうまくいかないのです。
今日は午後から雨が降りました。チャンスですよ、青木君。
ガンガン行きましょう。

まずはあそこに企画部のミドリちゃんがいますよ。明るくていい子です。
さあ、声をかけましょう。
「あ…あの…。傘は、いりませんか?」
ちょっとちょっと青木君、傘売りじゃないんだから。「傘、はいりませんか…」でしょ。切るところが変ですよ。
「傘はいらないわ。彼が車で迎えに来るから。他の人に売ってね」
ミドリちゃん、呆れてますね。それにしても彼氏がいたとは残念です。
次行きましょう。

あそこに秘書課のユミちゃんがいますよ。脚がきれいです。今度は失敗しないで下さいよ。
「あの…。傘、入りませんか?駅まで一緒に…」
いいですよ。その調子です。
「ありがとう。でも私、今から専務のお供で出張に行くの。誤解しないでよ。仕事だからね。あくまで仕事よ。不倫じゃないわ。絶対違うのよ」
返って怪しいですよねえ。不倫女はやめて次行きましょう。

あそこにいる女性はどうです?紺のスーツを着ている人です。傘がなくて困っています。
「あ…あの…。入りませんか?」
「え?本当に?」
「はい。よかったら、入りませんか?」
「うれしい!!ありがとうございます。本当に入れていただけるんですね」
「はい…」
「うわ~!やった~!それで、いつからですか?」
「…何が?」
「仕事ですよ。いつから来ればいいですか?この会社に入れてもらえるなんて夢みたい。面接の感触イマイチだったから落ち込んでたんです」
「あっ!」
中途採用の面接に来ていた人だと、青木君は気づきました。
青木君も面接官のひとりだったのです。

「あの、ごめん。入りませんかと言ったのは、傘のことです。駅まで一緒にどうかと思ったんです。僕の言い方が変でした。ごめんなさい」
女性は耳まで真っ赤になりました。なかなか可愛いです。
「いやだわ、私ったら…。そうよね。こんな玄関先で返事をもらえるはずないわ。恥ずかしい。なかなか就職できなくて焦ってたんです」
「採否の通知は、後日郵送します。それよりとりあえず、傘、入りませんか?」
女性は両手で頬を押さえて、恥ずかしそうに頷きました。
「お願いします」

相合い傘の出番です。なかなかお似合いのふたりですよ。


さて、それからふたりがどうなったか、知りたいですか?知りたいですよねぇ。
教えましょう。
見事にカップル成立です。
ちょっとおっちょこちょいのハズキちゃん(24)は、この会社には不採用でしたが、青木君のところへ永久就職することになるのです。

さて、わたしの役目は終わりました。空へ帰りましょう。
次は、あなたのところへ行くかもしれませんよ。


(終わり)
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台風が近づいていますが、こんな傘があれば、雨の日も好きになるかもしれませんね~。


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『門番』  Tome館長さん [ショートショートの紹介!]

Tome館長さんの作品を紹介するのは3回目です。
(1回目 『忘れたい女』 → http://takeaction.blog.so-net.ne.jp/2011-05-23 )
(2回目 『ピアノの失恋』 → http://takeaction.blog.so-net.ne.jp/2011-06-29 )

Tome館長さんは短い作品にこだわりをお持ちで、今回も原稿用紙1枚程度の超短編です。
門番も独自の雰囲気を醸し出した佳作です。
絵の雰囲気も素朴なフレスコ画を連想させます。
ぜひともTome館長さんの作品を絵と文章の両方ともお楽しみください!


【Tome館長さんのブログ・Tome文芸館】 → ほぼ毎日更新中!
http://poetome.exblog.jp/

【FC2 小説】
http://novel.fc2.com/user/10003215/

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『門番』   Tome館長さん


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門番表紙.jpg

それはそれは立派な門であった。

絵にもかけないほど立派だった。
つい入ってみたくなるのだった。


「いらっしゃいませ」

高過ぎず低過ぎず、
じつに感じの良い声だった。

「お待ちしておりました」

おそらく門番とでも呼ぶのだろう。

その男に家まで案内された。


意外に狭い庭である。
家も小さかった。

玄関を抜け、居間らしき部屋に入り、
そこで主人と対面した。

「つい入ってしまいました」
「そうでしょう、そうでしょう」

この主人とは初対面であった。

「私を待っていたそうですが」
「話し相手が欲しくてね」

幸せそうな笑顔の老人である。

「それにしても、立派な門ですね」
「そうでしょう、そうでしょう」

「不思議な門と言いますか」

老人の笑顔はそのままであった。

「あれは、あとで建てたんですよ」
「あと、と言いますと?」

「あの門番を雇ったあとですよ」

そう言えば、好感の持てる男だった。

「なるほど。確かに立派な門番でしたね」
「そうでしょう、そうでしょう」

「そうですね、そうですね」


もうなにも話すことがないのだった。

(終わり)
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門番をやとってから門を作るという発想がいいですね。
カフカの短編を彷彿とさせました。

『さよならイエスタデイ』 ゆめなさん [ショートショートの紹介!]

今日はゆめなさんの『さよならイエスタデイ』を紹介します。
ゆめなさんの作品は、淡々とした文体のなかに気品を漂わせていて、とても上手な文
章だと思います。
ストーリーも、主人公であるミス・シュプレームの孤独を表現していきますが、それ
で物語を閉じるのではなく、ラストで読者を前向きな気持ちにさせてくれます。
安心して読める良作だと思います。
また、ゆめさんは様々なイラストを描かれています。
かわいらしい絵柄から、スタイリッシュなイラスト、幻想的な作品まで、技の広さは
驚異的です。

ぜひとも、ゆめなさんのHPでイラストもご覧下さい!

【FC小説 ゆめなさんのページ】
http://novel.fc2.com/user/299942/

【ゆめなさんのHP】
http://obo.hebiichigo.com/


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『さよならイエスタデイ』 ゆめなさん
(初出:電子書籍デジブ H23.8.4)


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 ミス・シュプレームに手に入らないものはありませんでした。彼女は世界で一番のデザイナーで、とても美しく、由緒正しい家の一人娘であったので、知識も、教養も、富も、人々の羨望の眼差しも、すべてを一心に集めていました。彼女が喉が渇いたと言えば誰もが大慌てで国一番の高級な紅茶を用意し、天気が良くて外が気持ちいいわねと言えば仕事を休ませて絶景の公園を貸し切りにします。
 ミス・シュプレームの描いたものはたちまち億万の値打ちがつき、その繊細で緻密なデザインは世の人々を次々と虜にしていきました。
 ある日、ミス・シュプレームが手がけたウェディングドレスのお披露目パーティが開かれたときのことです。
 会場に小さな子どもが迷い込んでいたのを警備員の一人が発見しました。
 子どもは棒のように細い手足と薄汚いぼろを纏っていて、とても見ていられるものではありません。何人もの貴婦人が子どもを見て悲鳴を上げ、早く捕まえてちょうだいと言いました。
 ですがその子どもはすばしっこく、何かを探している様子で、周りが見えていません。白いテーブルクロスにもぐりこみ、ついには主役のミス・シュプレームの足につまづいて転びました。
「なんて無礼な子なの!」
 秘書が叫びます。「早く誰か捕まえて!」と続けますが、誰もがその薄汚い姿を見て首を横に振り、自ら動こうとはしませんでした。
 そのときです。子どもがぱあっと突然笑い出しました。
「いたわ!」
 どうやら探し物を見つけたようです。
 ぴょん、とテーブルの下から、同じように真っ白な一羽のうさぎが姿を現しました。
 周囲がどよめきます。あんなものを入れたのは誰だ、と男の声ががなります。
「ほうら、おいで。帰りましょうよ」
 子どもが笑いながらうさぎに歩み寄ります。
 動物に話しかけるなんて、と誰かがため息をもらしました。
 人騒がせな、と別の声が言いました。
 ざわざわと周囲がざわめいた、次の瞬間です。
 パン、と乾いた音が高くこだましました。
 煙のにおいが充満します。うさぎが赤い血を流しながらぱたりと動かなくなってしまいました。
「お騒がせをしました。すぐに回収しますので、皆さまは引き続きお楽しみください」
 機械的な、冷たい声がして、銃を持った男が前に出てきました。
 ミス・シュプレームはじっと子どもを見ています。
 子どもはうさぎのもとに駆け寄ると、その腹をゆすって、何か声をかけました。うさぎは動きません。子どもの手が赤く染まっていきます。
 子どもが立ち上がって振り返りました。ミス・シュプレームと目が合います。子どもは彼女のもとに駆け寄ると、彼女の手にしていた、白いスカーフをはぎ取りました。
「貸して!」
 そう言って再びうさぎのもとへ駆け寄って行くと、子どもはその赤い腹にスカーフを巻き付けます。
 誰もが一瞬、呆然としました。
 雪のように白いスカーフに、鮮やかな赤が染みこんでいきます。
「いやあ!」
 秘書が頭を抱えて絶叫します。
「あの子は何を考えているの! 自分が何をしているかわかっているの!?」
 あの子どもが持っているスカーフは、ミス・シュプレームの、一番新しい作品でした。
 最高級のシルクの生地に、ミス・シュプレーム自らが手で刺繍をほどこした、世界でたった一枚だけのものです。誰もがその美しさにため息をこぼし、いくらだって値段をつけて欲しがる逸品なのです。
 これはミス・シュプレームしか知らないことですが、実は、そのシルクは、今は亡き彼女の父が、彼女がいつか作り上げる最高の作品のためにと残した、たった一つだけの贈り物でした。
 それがどんどん血に染まっていきます。
「誰かあの子を!」
「止めるな!」
 秘書の声を遮って、ミス・シュプレームの、凛と強い声が響きわたりました。
 誰もが息を止めて、じっと動かなくなります。
「ですがミス・シュプレーム!」
 噛みつくように言った秘書の方は見ずに、ミス・シュプレームは子どもに歩み寄ってしゃがみ込みました。
「お前、そのうさぎは友だちなのか?」
「そうよ、大事なお友だちよ。早く治してあげなきゃ!」
 馬鹿だな、もう死んでるよ、と近くにいた男が呆れたように言いました。うさぎが友だちだなんておかしな奴だな、と別の声が笑います。滑稽な子どもだ、無礼だ、無知だと、声はどんどん増えていきます。
「黙るんだ」
 ミス・シュプレームが立ち上がりました。途端に声が止みます。
 ミス・シュプレームは子どもを見つめました。
「お前の名前は?」
「あたし? あたしはソイツよ」
「ソイツ?」
 その発音は人の名前というよりも、あいつ、そいつ、という言葉のそれに聞こえます。
 ソイツは顔を上げてにっこりと笑いました。
 その手の下で、うさぎはぴくりともしません。
 どうやら、ソイツはうさぎが死んでいるということがわからないようでした。
 そして、そのぼろから覗く細い肩に、治療の跡のない銃創のようなものがあるのにミス・シュプレームは気づきました。
「ソイツ。そのうさぎはもう死んでいるんだ」
「え?」
「私たちが殺してしまった。血を止めてももう動くことはない」
 ソイツはそう言われてやっとうさぎの死を理解したようです。うさぎとミス・シュプレームを交互に見て、それからスカーフを取り上げて、ぎこちなく笑いました。
「おばさん、ごめんね、綺麗な布を汚してしまって。ねえ、洗って返せばいいかしら。落ちるかな?」
「ミス・シュプレームに向かっておばさんだなんて――あのスカーフを洗ってだなんて――誰か、誰かはやくあの子をここから追い出して!」
 すっかり取り乱している秘書が叫ぶと、その声に応じるように、再び周囲が騒然とします。
「ソイツ。それはそのうさぎに差し上げよう。私たちの無礼を――詫びても詫び切れないが」
「何を仰っているのです、ミス・シュプレーム!」
「そうだな。足りないくらいだよ」
 毅然とそう切り返したミス・シュプレームに、秘書ははっとした顔をして、唇を噛んで押し黙りました。
 ミス・シュプレームは周囲の人々を真正面からじっと見据えます。
「お前たちにはこの子が何をしているのかわからないのか」
「そんな――その子は――」
「友だちを助けようとしたこの子が、どうして非難されなければならない」
 誰も、何も言えませんでした。
 ミス・シュプレームは目線とソイツと同じ位置に合わせました。
「ソイツ。お前は友だちを一人失ってしまったが、どうだろう。替わりとは言わないが、私の友だちになってくれないだろうか」
 ミス・シュプレームには手に入らないものはありませんでしたが、持たないものもまたありました。
「私には友だちがいないんだ」
 彼女は本当は、世界で一番おいしい紅茶も、貸し切りの公園も、美しい景色もいらなかったのです。
 世界で一番でなくてもいいから、一緒に紅茶を飲んでおいしいと思える相手や、楽しく笑い会える人と訪れる公園の方がずっと魅力的でした。
 それでも彼女の周りに集まってくるのは、ミス・シュプレームを、世界一のデザイナーや、高貴な家柄の娘という目でしか捕らえなかったのです。いつもミス・シュプレームは独りぼっちでした。
 だから不謹慎だと思っていても、目の前のソイツとの出会いを、ミス・シュプレームはとても喜ばしく思ったのです。
 ソイツは顔を上げて、ミス・シュプレームを見つめて、それからにっこりと、本当に嬉しそうに笑いました。
「いいわ。素敵なおばさん。お友だちになりましょう」
 ミス・シュプレームもにっこりと微笑み返します。
「それじゃまず、そのうさぎのお墓を作ってやろう。大事な友だちの、大事な友だちだ」


(終わり)
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いかがでしょうか?
物語の舞台の雰囲気を存分にかもし出されていると思います!


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『消えゆく言葉』 杏羽らんす さん [ショートショートの紹介!]

今日は、杏羽らんすさんの『消えゆく言葉』を紹介します。
この作品は、言葉を徐々に無くしていく老人の話という日常系ホラーテイストのショートショートです。
あまり具体的に内容を説明してしまうといけませんので、あとはぜひとも本文をお読みいただければと思います。
そして、デジブの杏羽らんすさんのページに移動し、作品をGETするなりハンコを押すなりしていただけると、きっと杏羽らんすさんも喜ばれると思います。

ちなみに「杏羽らんす」は”あんばらんす”と読みますので、お間違いなきように。
それでは、作品をお楽しみ下さい!


【デジブ・杏羽らんすさんのページ】
http://digib.jp/user#!/119

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『消えゆく言葉』 杏羽らんす
(初出:電子書籍デジブ H23.8.4)


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 とうの昔に老齢を向かえた私は、今年の冬に、とある奇病を患ってしまった。
 ひとことで言ってしまえば、痴呆、アルツハイマーのような、いわゆる記憶を失うといった類の病である。
 しかし私の病というのは、それらとは決定的な違いがある。
 それは、私が失うのは『記憶ではなく単語である』というものだ。
 たとえば私が今、手にしているこのリンゴ。
 今の私は、まだ『リンゴ』という単語を忘れていないため、平然とこのリンゴについて語ることができるが、やがてこの単語を記憶から失ってしまう。
 そうすると、私はもうこの赤い球状の物体を認知こそはするが、しかし単語を忘却してしまうという状態になってしまうのだ。

 ――――眩暈。

 ……これだ。
 この眩暈が起きると、私は何かを忘れてしまう。
 おそらく今この瞬間にも、私は何か単語を失ったのであろう。
 しかし何を忘れたのか、それは私自身知ることができない。なぜなら、その存在に単語があったという事実そのものを失うためだ。
 忘却とは、それを知覚していないからこそ忘却なのだ。これはど忘れとは違うのである。
 たとえば空を飛ぶカラスに名前があったとしても、名前があるという事実そのものを覚えていなければ、そのカラスに名前があったこと自体を思い出せないようなものだ。
 また、この病には病状の進行が極端に速いという特徴が挙げられる。
 私がこの病を発症したのは今年の であるが、今、季節は春である。
 発症から数か月しか過ぎていないにも関わらず、既に私が忘れてしまった単語というのは幾つもある。

 ――――眩暈。

 再び、酷い眩暈に苛まれる。私は頭に手を添え、ぐっと痛みを堪える。
 私は手にしていた赤い   を机に置いた。
 そして立ち上がる。
 私は決心していた。
 数年前に、長年連れ添った を失って以来、私はひとりで暮らしてきた。
 無論、介護のために人が来てくれてはいるのだが、それは私にとって――失礼な言い方ではあるが――他人にすぎない。
 私の心は孤独であった。
 そして私は単語を忘れていく。
 やがて私は全てを忘れてしまうのであろう。
 その前に、どうしても会いたい人がいた。どうしても伝えたい言葉があった。
 それを伝えるため、私は今日、この家を出て、その人へ会いに行こうと決心したのだ。

 ――――眩暈。

 頻繁に襲ってくる眩暈に耐え、私は座っていた  から腰を上げた。
 そしてドアの  に手をかけ、扉を開く。
 私は杖をつきながら重い歩を進め家を出た。

 電車に揺られて数時間。たどり着いたのは東京である。
 田舎の中でも辺境と言って差し支えない程に寂れた村に住んでいた私にとっては、都会というのは少々騒がしい。
 私がわざわざここへ来たのは、誰よりも愛する孫に会うためだ。
 人として尽きる前に、誰よりも愛しい、何よりも大切な存在である孫に会いたいと願うのは決して罪ではあるまい。

 ――――眩暈。

 一瞬、身体がよろける。
 周囲の人間が私のことをちらりと見るが、声をかけることはない。
 倒れでもすれば、さすがに手を差し出すのだろうが、そうでない限り関わらない方が無難ということであろう。
 私は、重い身体を で支えながら、孫の住む家へと向かう。


      ◆◆◆

 
 やけに眩暈が酷い。
 ここへたどり着くまでに、何度となく眩暈に襲われた。
 ここまで頻繁に眩暈が起きたのは、いままでに無い例である。
 もしかすれば、もう私の そのものが近いのかもしれない。
 ドアの前に立った私は、      を鳴らした。
 今日は、 曜日。  園も休みのはずだ。
 遊びに行っていなければ、きっと、孫はいるだろう。

 ――――眩暈。

 心なしか、眩暈による痛みそのものも強くなってきた気がする。
 とそのとき。
「あら、おじいちゃん! どうしたの、突然」
   が開いた。顔を見せたのは、息子の の涼子さんであった。
「いやね、孫の健太と美歩に会いたくなってしまってね」
 正直に告げる。どうしても今、誰よりも   、何よりも  な存在である孫に私は会いたかったのだ。
「とにかく上がってください」
 涼子さんはそう言って私を快く の中へ招き入れてくれた。
 私の息子は本当にいい をもらったようだ。

 ――――眩暈。

 もう今日で何度目になるかもわからない眩暈。
 よろけてしまったが、涼子さんが支えてくれたので怪我をするようなことはなかった。
 涼子さんに を引かれ、廊下の奥へと進む。
 早く会いたい。早く に会いたい。  な二人の に会いたい。
 一刻も、早く。

 ――――眩暈。

 頻度が異常に早くなっている。さすがにここまであからさまだと、苦笑せざるを得ない。  さん、早く連れていっておくれ。 に会わせておくれ。

 ――――眩暈。

  を引かれて、  の突き当りの部屋の  を  さんに開けてもらう。

 ――――眩暈。

 突きあたりの  の中には、  を見ている二人の の姿があった。
「あ、おじいちゃんだ!」
「おじいちゃん、こんにちはー!」
 元気な の声が聞こえる。ああ、なんと心地のよい元気な声だろうか。

 ――――  。

 また、ひどい  が起きる。しかし、痛みなど気にならない。なぜなら、 に会うことができたからだ。
「健太。美歩、おじいちゃんはね、どうしても今日、お前たちに会いたかったんだよ」

 ――――  。

「なになに、おじいちゃん!」
 男の子らしい元気な声で、  が尋ねる。

 ――――  。

「なあにー?」
 かわいらしく、  が聞く。

 ――――  。

 早く、伝えなければならない。
「  はね、  と  にね」
 うまく言葉がでない。
「なにおじいちゃん、どうしたの、よく聞こえないよ」

 ――――  。

 私の様子を見て、  さんが慌てて  を出ていった。そして  をかける。救急車を呼んでいるのだ、と直感した。

 ――――  。

 構うことはない。
 もう、あまりに に残された  は短い。
 きっと、自分の身体のことは自分がよく知っている、というやつだ。

 ――――  。

 不安そうな顔で、  と  が見ている。

 ――――  。

   はね。

 ――――  。

     が何よりも  なんだ。 

 ――――  。

 だから誰よりも   。

 ――――  。 

「      はね」
「おじいちゃん?」
「  と  が」
「どうしたの?」
「   なんだ」

 ――――  。

「なあに、よく聞こえないよ?」
 心配そうに見上げてくる二人に、なんとか紡ぐ。
「どうしたのおじいちゃん?」
「よく……聞いておくれ」
「うん、聞くよ」
 何を忘却しているのかさえ把握できない中で、まだ、自分に残されているであろう言葉を必死に模索し、つなぎ合わせる。
 
 なんとか……完成させることができた。 
 
 そして、最後のその言葉を、贈る。
 その言葉を



 ――――――――――――  。




「     」
 
 


 ――――  。



 ――――  。
 


 ――――  。 
 
 
 

 ――――  。











 
 
              。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
              /消えゆく言葉 了

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実際に言葉を消してしまうとは思いませんでした。
新しい事をしようという発想がいいですね!




『おろかな男の呟き』 月蔭屋さん [ショートショートの紹介!]

米国債の格下げから世界同時株安が始まりました。
とりあず一服感はありますが、さて、格下げ前の水準にもどるかどうかは分かりません。
アメリカやヨーロッパでは景気は弱含みで動きそうですし、頼みの綱の中国も息切れ感が噂されるようになりました。

ということで、今日は経済ショートショート、月蔭屋さんの『おろかな男の呟き』を紹介します。
円がデフォルトした日を、ある男の日常を通じて描きます。

ぼくは経済に詳しくないのですが、デフォルトしたらこのような感じになるんだろうなあという現実感があると思います。
それでは、お楽しみください!


【電子書籍パブー・月蔭屋さんのページ】
http://p.booklog.jp/users/tsukikageya

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『おろかな男の呟き』 月蔭屋



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ひどい男も居たもんだ
この書き出しからして読む気が失せる


* * *


できるサラリーマンを目指している俺は、いつものように一番乗りに会社に着いた。ゆとり世代とさんざんバカにされたが、それを見返してやろうともう何年もこの習慣を続けている。
とはいっても、今となってはこの部署に俺1人しかいないので、競争相手がいない。静かなフロア兼倉庫で、とりあえずパソコンを立ち上げる。


ちなみに、最初から1人だったわけじゃない。俺がこの部署に来た時、男ばかりの同僚が3人いた。
1人は35歳の中途入社で、履歴書に書いてあったスキルが真っ赤なウソであることがばれてすぐクビになった。もう1人はなにも仕事してないくせに鬱になってやめた。その後、自殺したらしい。最後までいた1人は40歳手前で同い年の相手と結婚し、産んだ子供が障がい児で、育児のためと言って辞めていった。俺はまだ独身だが、給料が低く仕事のない会社で残業代を稼ぐのに忙しいから、遊びも結婚もする予定はない。稼いだ金もほとんど税金に消える。特に年金の負担が大きいのだが、肝心の支給は80歳からだ。それまでに死なないで生きていようと思う。昨日も、消費税の25%までの引き上げ法案が否決されたばかりだ。今の20%だって相当なものだ、俺が産まれたときは3%だったんだぞ。


9時。さあ今日も一日頑張ろう、そのために携帯の待ち受けの画面のピンクの髪の女の子(アニメのキャラクターで、俺の嫁なんだ)を見ようとしたら、メールが来た。ロリターからのニュース速報メールだ。できるサラリーマンは最新の情報をいちはやくゲットする。「長期国債先物価格暴落、株価も急落」ということだ。なるほど。特に問題ない。先物ってあれだろ、金を右から左にやって大もうけできる奴だ。俺は貧乏だしそういうギャンブルには手を出していない。暴落ということは金持ちが大損こいたんだろう。メシウマメシウマ。俺はパソコンに向かって仕事を始める。


昼が過ぎた、もう1時だ。またニュースメールが届いている。「ドル、08年以来100円超え 円安止められず」。アメリカには行かないから関係ない。そろそろ昼飯を買いにいこう。今日は仕事の合間に「ツーシーエイチ」という掲示板に2つもスレを立ててしまった。あまりにも仕事が早く出来てしまうので、その合間に神々の遊びに興じるのだ。「ツーシーエイチ」でも国債がどうのというスレが立ちまくっていた。μ速民は金持ちのエリートばかりだからな。
1階のコンビニに行って昼飯を買おうと思い、エレベーターに乗る。昼時のエレベーターは各駅停車だ。乗ってくるのはみんなじいさんばあさんで、俺が一番若いぐらいだ。今の若者は一体どこで金を稼いでいるんだろう。


自分の机に戻って昼飯を食い終わる。話し相手が居ないことにはもう慣れた。これでも学生時代はリア充と呼ばれ友達も多かったのだが。


14時過ぎ、またメールが来た。「10年もの国債入札終了、急激な価格変動なし」というニュースメールだ。こんなメール受け取ってどうしろというんだ。毎月300円も払っているんだから、もっと有意義なメールを送ってきて欲しいもんだ。


その日は3時間残業し、寮に帰って寝た。うちにはテレビもないし、新聞もない。パソコンがあれば何も問題ない。
もう何年も会っていない大学の友達からメールが来ていた。
「可能なら全財産海外に送れ、とりあえずうちの外資銀行に預けてくれればどうにかする」
意味が分からない。気でも狂ったか。アドレス詳細を見ると、当時のサークルメンバーに送っているみたいだ。メールはフォイスブックで送ってきて欲しい。


次の日も何事もなく過ぎた。この日の晩は、ニヨニヨ動画という動画サイトでピンク髪の女の子が出てくるアニメを1話から見直していたので、朝まで起きていた。


翌々日、できるサラリーマンである俺はあろうことか居眠りをしてしまった。ピンク髪の女の子へのあまりの愛の大きさが、俺を寝不足に追い込んだのだ。しかし、これだけ愛せる相手が居るのは素晴らしいことだ。大体、俺が居眠りしたってだれも来やしない、電話もかかってこない。どうせ仕事もあるけどないようなもんだしいいじゃないか。
既に昼を過ぎて2時になっていた。とりあえず昼飯を買いに、いつものように1階のコンビニに下りるため、エレベーターに乗る。いつもなら階下で働いている何人かのおじいさんおばあさんが、かしましく話をしながらエレベーターを満員にするのだが、今日は誰も乗っていない。昨日あたりお迎えのバスが来たのだろうか。あいつら死んだら俺も昇進できるかな。年金の負担も減るかもしれない。


1階に着き、ドアが開く。と、目の前に長蛇の列があった。お前らは何だ、蟻か? このビルに居る全員が並んでいるんじゃないかというぐらいの長さだった。コンビニのある方へ回り込むと、列が外まで延々と続いていることに気づいた。列はコンビニからのと銀行からの二列あって、コンビニ店員が「さっせーん、ATMもうつかえっせーん、んこーいってっさーい」などと叫んでいる。何を言っているのか分からない。どうやらみんなATMに群がっているようだ。今日給料日だったか? コンビニの列が銀行の列と入り乱れて罵声が飛んでいる。並んでいるのは老人が多いようだ。いつもエレベーターに乗り合わせる人の顔を見かける。なにやら穏やかでない雰囲気である。
まぁ俺には関係ない。コンビニで昼飯を買おう。


自分の机に戻る。もう2時半近くなってしまった。携帯にメールが来ている。ニュースメールだ。「5年もの国債価格暴落、買い手つかず」なんとなくヤバいような気がした。国債は手つかずなのか。大体こういうのは政治家が悪いんだ。
そうだ、俺にもうちょっと語彙があれば、ラノベが書けるんじゃないか。国債「ドーン!」俺は後ろを向いて振り返った。死んだ。みたいな。なかなか良い気がする。


くだらないな、と思う。誰もいない、しんと静まり返ったフロアに、電話の音がけたたましく鳴り響いた。びっくりだ。もう何ヶ月も鳴っていなかったのに。電話を取ると、モニター越しにしか話したことのない上司の声が聞こえた。
「政府から非常事態宣言が出た。今日は帰れ」
えっ、と聞き返すまもなく電話が切れた。
わけがわからない。上司は頭がおかしいのではないだろうか。少なくとも俺の生活にこれっぽっちの非常事態も起きていない。多分、上司は東日本大震災なんかを経験しているから、ちょっとしたことでこうやって「帰れ」ということに誇りを感じているんだろう。


とはいえ、何か大変なことが起こっている。それはなんとなく肌で感じられる。しかし、何が起こっていてどうしたらいいのか分からない。パソコンで「ツーシーエイチ」のスレを見ることにした。
財産を海外に移す方法(727)
【国債】円オワタ【暴落】★8(53)
なんでIMFが何もしてくれないのはなぜなんだぜ?(925)
「財産を海外に……」はなんだか既視感がある。なんだったか。そうだ、数日前の友人からのメールだ。もうわけがわからない。


とりあえず上司に帰れと言われたので帰ろう。まだ3時だからちょっと秋葉原に寄っていこうかな。
1階に降りると、未だに長蛇の列であった。いや、もう列は半ば崩れかかっていて、銀行員の人に多くの人が詰め寄っていた。運転見合わせになった駅のような雰囲気だ。尋常じゃない。あわてて外に出た。
信号が変わりかけて、さっそく横断歩道を渡ろうとすると、「日通警備」と書かれた現金輸送のバンが猛スピードで目の前を通過していった。驚きのあまり目で追っていくと、カーチェイスさながらに車線変更を繰り返しながら走っていく。と思ったら、うちのビルに入っていった。そこの銀行に現金を届けるんだろうか。


いつも使う地下鉄の駅はビル直結だが、秋葉原へ行くためにはJRの駅から電車に乗るのが良い。駅までに3つ銀行があるが、どこも人でごった返していた。コンビニの前にも店員が立って、ATM使えませんと連呼している。
駅前の巨大ディスプレイには、なぜかNHKのニュースが流れていた。駅に入ると、駅の液晶パネルもNHKのニュースが流れていて、何人かの人が立ち止まって見ていた。
「……に対し政府は非常事態宣言を発布しました。海外からの支援が明日までに行われない場合は、預金引き出し制限を行うと思われます。日銀は基準貸付利率をゼロパーセントとし、ロンバート型貸出制度を一時的にとりやめ、無担保でも融資を行うと発表しました。財務省は米国債の放出を決定し……」
思わず、日本語でおk、と言わざるをえなかった。ニュースを見ても、なにが起こっているのか全然わからない。ウーウーというけたたましい音がして、外の道をパトカーが走っていく。


怖くなって、やっぱり家に帰ろうかと思う。それでも不安な心を押し殺そうとして歩き出し、JRの改札を通ろうとすると、改札機がピンポーンといって行く手を阻んだ。「チャージ金額が不足しています」そうだ、定期じゃないんだった。券売機にカードを入れ、1000のボタンを押し、千円札を取り出そうとする……しまった、金がない。しかし、このような状況ではどこで金を下ろせば良いのか。
仕方ない。戻って地下鉄に乗って帰ろう。そう思って歩き出すと、横道の狭い店に人が群がっている。金券ショップのようだ。怒号が飛び交っている。「今日はだめ!店閉める!閉めるっつってんだろ!」少し歩くと、宝石店にも人が群がっていた。「整理券をお配りします、お待ちください!お待ちくださいお客様!」やれやれ。尋常じゃない。警官が2人、横を走っていった。


なんだか街全体が殺気立っているように思えた。何が起こっているのか分からないまま、ものすごく大きな濁流にのまれて死んでしまうような感じだ。地下鉄に乗っているあいだ、本当にちゃんと寮につけるのか心配だった。目的の駅に着き、少しほっとして列車を降りると、駅員の声がホームに響いた。
「この列車は当駅で運転を見合わせます、只今霞ヶ関駅で緊急停止ボタンが押された影響で、運転を見合わせます……」


家に帰り、動画サイトを立ち上げると、ニュースの録画ばかりがランキングに上がっていた。ひとつをクリックして内容を見る。
「アメリカ国債は、急激な円安によって日本政府の保有債が売却されるのではないかという懸念が広まったことから価格が暴落、利率が急騰しました。FRBは一層のドル不安を避けるため大規模な買い入れは出来ないと見られておりますが、中国が数十億ドル規模の緊急支援を発表したほか、欧州中央銀行もアメリカに対する支援を発表し……」


だめだ、わけがわからない。日本の話とか銀行の話とか円の話とか全く出てこないじゃないか。今までインターネット上から、携帯からパソコンから、あれほど情報を享受していたのはなんのためだったんだ。
俺は明日からの生活が何も変わらないよう願いながら、まだ見ていないシリーズのアニメを見始めた。

(終わり)
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今の財政状況を見る限りだと、消費税25%というのもそう遠くない時期にありそうですね。
このような日がこないことを祈ります。

リンさんに続いて、川越敏司さんも物語をつけてくれました! [ショートショートの紹介!]

リンさんに続いて、川越敏司さんもハラミツタさんの絵に物語をつけてくれました!
タイトルは蜘蛛の巣の塔です。

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【『蜘蛛の巣の塔』】
http://p.booklog.jp/book/29968

大学の准教授として様々な研究に日々邁進されている川越敏司さんのHPはこちら
→ http://www.fun.ac.jp/~kawagoe/index-j.html


【*参考:リンさんの作品】
記事:http://rin-ohanasi.blog.so-net.ne.jp/2011-07-05


いやー、驚きました。
同じ絵からこうも違う物語ができるのですね。
リンさんは子供時代を彷彿とさせる心温まる作品。
川越さんはファンタージー色を強く出して、最後はシュールなオチで締めます。
読み終わって、妖精が持つ木の枝から、ここまでは発想が広がったのかな、と想像しました。
目の付け所の違いを読み解くというのも面白いものですね。

ご本人はファンタジーを書くのは初めてと謙遜されていますが、世界観がしっかりしていると思います。
ぜひとも、川越さんの『雲の巣の塔』をご一読ください!

『上の住民』 なににゅさん [ショートショートの紹介!]

今日はなににゅさんの『上の住民』を紹介します。
なににゅさんは僕が紹介してきた中でも、かなり旺盛な創作意欲をお持ちでの方で、ショートショートを中心に多数の作品を執筆されています。
また、粗挽派にも興味をお持ちで、粗挽派の作品も散見されます。

ちなみに本作は純然たるショートショートですので、粗挽派を知らなくとも楽しめると思います。
それでは、お楽しみください!


【FC2小説・なににゅさんのページ】
http://novel.fc2.com/user/5355223/

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『上の住民』 なににゅ


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上の住人がうるさい。

毎朝バタバタと足音がする。

それも毎日決まった時間だ。

3時40分から4時までの20分間。

深夜帰りの俺の睡眠を邪魔される。

足音がするようになったのは3ヶ月前。

もう我慢できない。

時計は3時30分を指していた。

あと10分。

今日こそは文句を言ってやる。

あと5分。

いったいこんな時間に何をバタバタしているのだろうか。

あと3分。

そういえば考えたこともなかったな。

1分。

まあいい、今日確認すればいいことだ。

3時40分。





バタバタバタバタバタバタバタバタ……





俺は勢い良く外玄関の扉を開けた。

待ってろ。

今日こそ文句を言ってやるからな。

エレベーターの前に立ち、上階ボタンを押そうとした。

俺はあることに気付き、一人大爆笑した。

なんだよ、そんなことかよ。

俺は笑いすぎてい膝を付いていた。

しょうもなさ過ぎた。

ゆっくりと立ち上がり、エレベーターに向かって叫んだ。





「ココが最上階じゃん!」





俺はまた笑い転げた。

エレベータの前に倒れ、笑い続けた。

息ができなくなった。

いままでこんな可笑しなことがあっただろうか。

そういえば玄関の鍵閉めてなかった。

テレビもつけっぱなしだった。

遠くから俺の笑い声が聞こえる。

今年一番の熱帯夜の出来事だった。


(初出:FC2小説 H23.7.7)
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いかがでしょうか?
最上階だったで終わるのではなく、「遠くから俺の笑い声が聞こえる」があることで、ホラー感をUPさせていると思います。
感情的に笑いと恐怖は近いとか、どこかで読んだ記憶があります。
そんなことを、思い出しました。

ハラミツタさんの絵に、リンさんが物語をつけてくれました! [ショートショートの紹介!]

ハラミツタさんの絵に、リンさんが物語をつけてくれました!

先週紹介した絵コンテ作家のハラミツタさんのイラストに、リンさんが素敵なお話をつけてくれました。

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【リンのショートストーリー】
記事:http://rin-ohanasi.blog.so-net.ne.jp/2011-07-05
HP:http://rin-ohanasi.blog.so-net.ne.jp/


リンさんのブログを読んで欲しいので、ここでは内容紹介をしません。
温かい気持ちにさせれる、そして大人はちょっと子供時代を思い起こさせる優しい佳作です。
ぜひぜひ、リンさんのブログを訪れて下さい。

ぼくもイラストから物語を考えています。
シュールな話と思わせつつ、最後はイラストの少女のように希望を見据えて……という予定ですが、上手くまとまるかどうか。

リンさん本当にありがとうございます!
これこそ、ブログを続ける喜びです!

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