【掌編】齊藤想『史上最強棋士は誰だ!』 [自作ショートショート]
第11回星新一賞に応募した作品です。
本作は完全に楽しんで書いた作品です。
一般人には通じない将棋ネタをボンボンつぎ込んでいます。
過去の名人・偉人たちを出す場合ですが、自分が注意しているのは、明確な敗者を作らないことです。
具体的な技法はこちらの無料ニュースレターで紹介します。次回は9/5発行です。
・基本的に月2回発行(5日、20日※こちらはバックナンバー)。
・新規登録の特典のアイデア発想のオリジナルシート(キーワード法、物語改造法)つき!
―――――
『史上最強棋士は誰だ!』 齊藤 想
2100年にタイムマシンが完成したとき、将棋界には喜びの声が上がった。だれもが待ち焦がれてきた長年の謎が解明される日がやってきたのだ。
だれが史上最強の棋士なのか。だれが一番強いのか。
将棋ファンの間では、ずっと、同じことが議論されてきた。
もちろん答えなどないし、出しようがない。AIによる棋力比較は何度も試みられてきた。だが、人間同士の将棋では、あえて相手の読みを外して混乱させたり、わざと最善手を逃して相手の悪手を誘ったりする。番外戦術で相手に平常心を失わせる棋士もいる。
将棋は結果が全て。
結局のところ、AIでは本当の棋力は測れないのだ。
だが、タイムマシンが完成したいま、夢の対戦を実現させれば、史上最強の棋士を決めるトーナメントを開催することができる。
一部から慎重論がでたものの、大多数のファンの後押しにより、日本将棋連盟からも実現に向けてのゴーサインが出た。
まずは資金確保である。タイムマシンの稼働には莫大な費用がかかる。夢のトーナメント実現のため、クラウドファウンディングを募ったところ、ファンたちがこぞって多額の寄付を投じてくれた。返礼品の直筆揮毫色紙が足りなくなり、棋士は総出で色紙作成に没頭することになったが、誰からも不平不満はでなかった。
棋士たちも、夢の対決が見たいのだ。
対局はネットTVで生中継されることが決まった。スポンサーが次々と名乗りを上げ、CМ枠が地上波を遥かに超える高値で取引されるようになった。対局中に出される食事、飲み物やおやつまで、協賛企業間の争奪戦となった。
あまりの反響に、日本将棋連盟は驚いた。
こうなったからには、なんとしても成功させなければならない。これで企画がとん挫したら、責任問題になりかねない。毎日のように深夜までの会議が続き、外部コンサルタントの力も借りて、詳細が詰められていた。
次なる難問は、各時代の史上最強棋士を集めることだ。
棋士やファンによる投票、さらには残された棋譜の分析から、江戸時代は大橋宗英、明治は関根金次郎、大正は坂田三吉、昭和は大山康晴、平成は羽生善治、令和は藤井聡太が選ばれた。令和以降についてはまだ早いということで、対象から外された。
将棋連盟の理事は、それぞれの時代に飛んだ。もちろん彼らが一番強かった年代だ。
羽生善治と藤井聡太との交渉は順調に進んだ。タイムマシンが実現していない時代とは言え、その概念を理解していたことが大きかった。話をすると興味津々で、羽生善治は「ええ、まあ」、藤井聡太は「あ、はい」と答えて、すんなりと2100年に来てくれた。
大山康晴は難航した。現実主義者ということもあり、タイムマシンというものをまったく信じないのだ。ところが、ライバルであり兄弟子だった升田幸三がくわえ煙草で「錯覚いけない、よく見るよろし」と言い、タイムマシンをじろじろ眺め、本物だと理解して「なぜわしを選ばん。おれが、いく」と叫んだ途端に、大山康晴はタイムマシンに乗り込んだ。
思わぬ成功に味を占めた将棋連盟幹部は、関根金次郎にも同じ手口を使った。
関根金次郎が指し盛りだったのは明治二十年代後半だが、当時の名人は終身で、ちょうど名人位が空位の時代だった。関根金次郎は、次の十二世名人の座を、ライバルの小野五平と争っていた。
「優勝すればあなたが十二世名人ですよ」
日本将棋連盟幹部がそうささやくと、関根金次郎はタイムマシンが何か分からぬまま、未来へとやってきた。
一番の難関は江戸時代の大橋宗英と思われた。ところが、思いのほか交渉はすんなりとまとまった。実は当時の名人家は大変な資金難で、幕府から貸し与えられていた長屋を町人に又貸して、なんとか糊口をしのいでいた。
そのことを知っていた日本将棋連盟は、姑息な手段だと思いながらも、砂金を袋ごと渡すことで江戸時代の大名人を未来につれてきたのだ。
一番苦労したのは坂田三吉だ。なにしろ彼は将棋の腕前は抜群だが、無学の文盲で、タイムマシンの概念に首をひねるばかりだった。契約書を見せても読めないし、理解する気もない。
だが、坂田三吉は非常に義理堅い面がある。
恩義のある関西方面の経済人から声をかけてもらい「強い相手がいるならば」とおっかなびっくりタイムマシンの席に座った。
これでメンバーがそろった。
次はルールの確認だが、ここでまたひと悶着があった。
そもそも持ち時間という概念ができたのは昭和以降であり、それ以前の棋士である大橋宗桂や関根金次郎が頑として首を縦に振らない。坂田三吉も昭和以降は持ち時間のある将棋を指しているが、なにせ、ここにいるのは大正時代の坂田三吉である。大橋宗英や関根金次郎の味方をして、三人そろってテコでも動かない構えを見せている。
彼らは「時間に制限があると良い将棋は指せない。我々は小さな駒に命を懸けて、盤面に向かっている。将棋は命の取り合いである。命の取り合いに時間制限などあってたまるか」と強く主張した。
”棋士”ではなく”将棋指し”と呼ばれていた時代である。大勝負となれば、こうした感覚が普通だった。
だが、中継がある。時間無制限というわけにはいかない。9時間の二日制が限界だ。
ここで藤井聡太がうまい折衷案を出した。
「定跡は日々進歩しています。このままでは新しい世代が有利ですから、対局者のうち先輩側が持ち時間を自由に選べるというのはどうでしょう?」
大橋宗英が食いついてきた。
「定跡はそんなに進歩しているのかね」
大橋宗英の言葉に坂田三吉は「定跡など弱いものが頼るものだ」とそっぽを向いたが、関根金次郎は新しい定跡を知りたそうな様子を見せている。
「ひとつの例ですが」と、羽生善治が平成の定跡を披露し、驚く古豪たちに続けて藤井聡太が平成を遥かに上回る令和時代の定跡を並べ始めた。次々と披露される斬新な手順を見せられて、三人が相談を始めた。
しばらくして、三人の考えがまとまった。大先輩である大橋宗英が結論を述べる。
「持ち時間は9時間でかまわないが、対戦条件を同じにするため、現代の定跡と手筋を勉強する時間を要求する」
確かにその通りだ。だれもが納得し、勉強時間として1年間の猶予が与えられた。
この1年間が、また評判を呼んだ。
歴史に残る大棋士に取材班が密着する大切な時間となり、その様子が定期的にドキュメンタリーとして放映された。
大橋宗英は一心不乱に勉強し、実戦派の関根金次郎は新時代の棋士との対局に夢中となった。坂田三吉は自らの心と向かい合うと称して盤面を磨き続けたが、実は極端な顔見知りであるだけで、ネット将棋を覚えてからは密かに練習を続けた。
昭和以降の棋士も、新しい定跡と手筋の勉強をしつつ、未来の生活を楽しんだ。
大山康晴は健啖家らしく、2100年の珍味に舌鼓を打ちながら麻雀を打った。羽生善治は未来のおにぎりをほおばりながら、新種のウサギを撫で続けていた。藤井聡太は最新式の自作PCの組み立てに夢中になり、最新型のリニアモーターカーに乗車して感嘆の声を上げた。
それぞれの一年間が過ぎた。
ここまで準備したのだから、一発勝負のトーナメントではもったいない。先後を入れ替えて二番勝負の総当たりとなった。
なにせ、ここにいるのは歴史に残る最強棋士ばかりだ。しかも全員が指し盛りで、それぞれが最新の定跡で武装している。
対戦が始まると、やはり古い時代の棋士は苦戦した。勉強したといっても慣れ親しんできた定跡が違うし、手筋も異なる。特に攻めの筋が進歩しているので、受けきるのが大変なのだ。
だが、それぞれが驚異的な才能を持っている。古豪たちも、後半戦になって盛り返してきた。
大橋宗英は新しい手筋を理解して、最新の攻めを受け潰すようになってきた。新時代の将棋をどんどん吸収するのが嬉しくてたまらないようだった。
自由奔放な将棋を指す関根金次郎は、名人という肩書がなくとも、強い棋士たちがスターとして子供たちのあこがれになっている姿に感動する様子を隠せなかった。
坂田三吉は定跡こそ無頓着だったが、力戦形となれば、その腕力で新時代の棋士たちをねじ伏せた。将棋を見て楽しむファンの存在に驚き、なによりひとを驚かすことが大好きな坂田三吉だけに、見られることでさらに奇手を連発してファンを喜ばせた。
大山康晴は得意の盤外戦術を駆使したが時代が違いすぎて通用しないと悟ると、本来の粘りの将棋で新時代のスターたちを苦しめた。彼は将棋界の運営にもかかわっているだけに、頻繁に日本将棋連盟を視察して幹部たちと討論することで、将棋界発展に向けての展望を温め続けた。
羽生善治と藤井聡太は現代将棋に適応しつつも、まるでファッションモデルと大学教授をかけ合わせたような現代棋士たちの姿を見て、彼らに負けないような新しい棋士像を模索した。
なんだかんだと、みんな、将棋が好きなのである。
予想外の大激戦の末、最終的に優勝したのは藤井聡太だった。
各棋士は元の時代に戻された。
歴史に影響を与えないように記憶は消されたのだが、完全には消しきれなかった。
大橋宗桂は「飛車先の歩交換」や「負けにくい将棋」など大局観の革命をもたらし「近代将棋の祖」と呼ばれるようになった。
十三世名人となった関根金次郎は、実力による名人制の必要性を感じ、自ら名人位を返上することでその実現に尽力した。
坂田三吉は低俗な遊びとして扱われていた将棋を全国民の注目を集める大イベントとして成立させることに貢献し「南禅寺の決戦」など、エンターテナーとして将棋界を盛り上げ続けた。
大山康晴は将棋界の未来を見据えながら将棋連盟会長を十年以上も務め、数々の棋戦創設に尽力。普及活動にも熱心に取り組み、将棋界発展の基礎を築き上げた。
羽生善治は従来にない感覚で将棋界を席巻し、古き良き伝統を残しながら、新しいスターとして将棋界のイメージを一新することに成功した。
そして、藤井聡太は……
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本作は完全に楽しんで書いた作品です。
一般人には通じない将棋ネタをボンボンつぎ込んでいます。
過去の名人・偉人たちを出す場合ですが、自分が注意しているのは、明確な敗者を作らないことです。
具体的な技法はこちらの無料ニュースレターで紹介します。次回は9/5発行です。
・基本的に月2回発行(5日、20日※こちらはバックナンバー)。
・新規登録の特典のアイデア発想のオリジナルシート(キーワード法、物語改造法)つき!
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『史上最強棋士は誰だ!』 齊藤 想
2100年にタイムマシンが完成したとき、将棋界には喜びの声が上がった。だれもが待ち焦がれてきた長年の謎が解明される日がやってきたのだ。
だれが史上最強の棋士なのか。だれが一番強いのか。
将棋ファンの間では、ずっと、同じことが議論されてきた。
もちろん答えなどないし、出しようがない。AIによる棋力比較は何度も試みられてきた。だが、人間同士の将棋では、あえて相手の読みを外して混乱させたり、わざと最善手を逃して相手の悪手を誘ったりする。番外戦術で相手に平常心を失わせる棋士もいる。
将棋は結果が全て。
結局のところ、AIでは本当の棋力は測れないのだ。
だが、タイムマシンが完成したいま、夢の対戦を実現させれば、史上最強の棋士を決めるトーナメントを開催することができる。
一部から慎重論がでたものの、大多数のファンの後押しにより、日本将棋連盟からも実現に向けてのゴーサインが出た。
まずは資金確保である。タイムマシンの稼働には莫大な費用がかかる。夢のトーナメント実現のため、クラウドファウンディングを募ったところ、ファンたちがこぞって多額の寄付を投じてくれた。返礼品の直筆揮毫色紙が足りなくなり、棋士は総出で色紙作成に没頭することになったが、誰からも不平不満はでなかった。
棋士たちも、夢の対決が見たいのだ。
対局はネットTVで生中継されることが決まった。スポンサーが次々と名乗りを上げ、CМ枠が地上波を遥かに超える高値で取引されるようになった。対局中に出される食事、飲み物やおやつまで、協賛企業間の争奪戦となった。
あまりの反響に、日本将棋連盟は驚いた。
こうなったからには、なんとしても成功させなければならない。これで企画がとん挫したら、責任問題になりかねない。毎日のように深夜までの会議が続き、外部コンサルタントの力も借りて、詳細が詰められていた。
次なる難問は、各時代の史上最強棋士を集めることだ。
棋士やファンによる投票、さらには残された棋譜の分析から、江戸時代は大橋宗英、明治は関根金次郎、大正は坂田三吉、昭和は大山康晴、平成は羽生善治、令和は藤井聡太が選ばれた。令和以降についてはまだ早いということで、対象から外された。
将棋連盟の理事は、それぞれの時代に飛んだ。もちろん彼らが一番強かった年代だ。
羽生善治と藤井聡太との交渉は順調に進んだ。タイムマシンが実現していない時代とは言え、その概念を理解していたことが大きかった。話をすると興味津々で、羽生善治は「ええ、まあ」、藤井聡太は「あ、はい」と答えて、すんなりと2100年に来てくれた。
大山康晴は難航した。現実主義者ということもあり、タイムマシンというものをまったく信じないのだ。ところが、ライバルであり兄弟子だった升田幸三がくわえ煙草で「錯覚いけない、よく見るよろし」と言い、タイムマシンをじろじろ眺め、本物だと理解して「なぜわしを選ばん。おれが、いく」と叫んだ途端に、大山康晴はタイムマシンに乗り込んだ。
思わぬ成功に味を占めた将棋連盟幹部は、関根金次郎にも同じ手口を使った。
関根金次郎が指し盛りだったのは明治二十年代後半だが、当時の名人は終身で、ちょうど名人位が空位の時代だった。関根金次郎は、次の十二世名人の座を、ライバルの小野五平と争っていた。
「優勝すればあなたが十二世名人ですよ」
日本将棋連盟幹部がそうささやくと、関根金次郎はタイムマシンが何か分からぬまま、未来へとやってきた。
一番の難関は江戸時代の大橋宗英と思われた。ところが、思いのほか交渉はすんなりとまとまった。実は当時の名人家は大変な資金難で、幕府から貸し与えられていた長屋を町人に又貸して、なんとか糊口をしのいでいた。
そのことを知っていた日本将棋連盟は、姑息な手段だと思いながらも、砂金を袋ごと渡すことで江戸時代の大名人を未来につれてきたのだ。
一番苦労したのは坂田三吉だ。なにしろ彼は将棋の腕前は抜群だが、無学の文盲で、タイムマシンの概念に首をひねるばかりだった。契約書を見せても読めないし、理解する気もない。
だが、坂田三吉は非常に義理堅い面がある。
恩義のある関西方面の経済人から声をかけてもらい「強い相手がいるならば」とおっかなびっくりタイムマシンの席に座った。
これでメンバーがそろった。
次はルールの確認だが、ここでまたひと悶着があった。
そもそも持ち時間という概念ができたのは昭和以降であり、それ以前の棋士である大橋宗桂や関根金次郎が頑として首を縦に振らない。坂田三吉も昭和以降は持ち時間のある将棋を指しているが、なにせ、ここにいるのは大正時代の坂田三吉である。大橋宗英や関根金次郎の味方をして、三人そろってテコでも動かない構えを見せている。
彼らは「時間に制限があると良い将棋は指せない。我々は小さな駒に命を懸けて、盤面に向かっている。将棋は命の取り合いである。命の取り合いに時間制限などあってたまるか」と強く主張した。
”棋士”ではなく”将棋指し”と呼ばれていた時代である。大勝負となれば、こうした感覚が普通だった。
だが、中継がある。時間無制限というわけにはいかない。9時間の二日制が限界だ。
ここで藤井聡太がうまい折衷案を出した。
「定跡は日々進歩しています。このままでは新しい世代が有利ですから、対局者のうち先輩側が持ち時間を自由に選べるというのはどうでしょう?」
大橋宗英が食いついてきた。
「定跡はそんなに進歩しているのかね」
大橋宗英の言葉に坂田三吉は「定跡など弱いものが頼るものだ」とそっぽを向いたが、関根金次郎は新しい定跡を知りたそうな様子を見せている。
「ひとつの例ですが」と、羽生善治が平成の定跡を披露し、驚く古豪たちに続けて藤井聡太が平成を遥かに上回る令和時代の定跡を並べ始めた。次々と披露される斬新な手順を見せられて、三人が相談を始めた。
しばらくして、三人の考えがまとまった。大先輩である大橋宗英が結論を述べる。
「持ち時間は9時間でかまわないが、対戦条件を同じにするため、現代の定跡と手筋を勉強する時間を要求する」
確かにその通りだ。だれもが納得し、勉強時間として1年間の猶予が与えられた。
この1年間が、また評判を呼んだ。
歴史に残る大棋士に取材班が密着する大切な時間となり、その様子が定期的にドキュメンタリーとして放映された。
大橋宗英は一心不乱に勉強し、実戦派の関根金次郎は新時代の棋士との対局に夢中となった。坂田三吉は自らの心と向かい合うと称して盤面を磨き続けたが、実は極端な顔見知りであるだけで、ネット将棋を覚えてからは密かに練習を続けた。
昭和以降の棋士も、新しい定跡と手筋の勉強をしつつ、未来の生活を楽しんだ。
大山康晴は健啖家らしく、2100年の珍味に舌鼓を打ちながら麻雀を打った。羽生善治は未来のおにぎりをほおばりながら、新種のウサギを撫で続けていた。藤井聡太は最新式の自作PCの組み立てに夢中になり、最新型のリニアモーターカーに乗車して感嘆の声を上げた。
それぞれの一年間が過ぎた。
ここまで準備したのだから、一発勝負のトーナメントではもったいない。先後を入れ替えて二番勝負の総当たりとなった。
なにせ、ここにいるのは歴史に残る最強棋士ばかりだ。しかも全員が指し盛りで、それぞれが最新の定跡で武装している。
対戦が始まると、やはり古い時代の棋士は苦戦した。勉強したといっても慣れ親しんできた定跡が違うし、手筋も異なる。特に攻めの筋が進歩しているので、受けきるのが大変なのだ。
だが、それぞれが驚異的な才能を持っている。古豪たちも、後半戦になって盛り返してきた。
大橋宗英は新しい手筋を理解して、最新の攻めを受け潰すようになってきた。新時代の将棋をどんどん吸収するのが嬉しくてたまらないようだった。
自由奔放な将棋を指す関根金次郎は、名人という肩書がなくとも、強い棋士たちがスターとして子供たちのあこがれになっている姿に感動する様子を隠せなかった。
坂田三吉は定跡こそ無頓着だったが、力戦形となれば、その腕力で新時代の棋士たちをねじ伏せた。将棋を見て楽しむファンの存在に驚き、なによりひとを驚かすことが大好きな坂田三吉だけに、見られることでさらに奇手を連発してファンを喜ばせた。
大山康晴は得意の盤外戦術を駆使したが時代が違いすぎて通用しないと悟ると、本来の粘りの将棋で新時代のスターたちを苦しめた。彼は将棋界の運営にもかかわっているだけに、頻繁に日本将棋連盟を視察して幹部たちと討論することで、将棋界発展に向けての展望を温め続けた。
羽生善治と藤井聡太は現代将棋に適応しつつも、まるでファッションモデルと大学教授をかけ合わせたような現代棋士たちの姿を見て、彼らに負けないような新しい棋士像を模索した。
なんだかんだと、みんな、将棋が好きなのである。
予想外の大激戦の末、最終的に優勝したのは藤井聡太だった。
各棋士は元の時代に戻された。
歴史に影響を与えないように記憶は消されたのだが、完全には消しきれなかった。
大橋宗桂は「飛車先の歩交換」や「負けにくい将棋」など大局観の革命をもたらし「近代将棋の祖」と呼ばれるようになった。
十三世名人となった関根金次郎は、実力による名人制の必要性を感じ、自ら名人位を返上することでその実現に尽力した。
坂田三吉は低俗な遊びとして扱われていた将棋を全国民の注目を集める大イベントとして成立させることに貢献し「南禅寺の決戦」など、エンターテナーとして将棋界を盛り上げ続けた。
大山康晴は将棋界の未来を見据えながら将棋連盟会長を十年以上も務め、数々の棋戦創設に尽力。普及活動にも熱心に取り組み、将棋界発展の基礎を築き上げた。
羽生善治は従来にない感覚で将棋界を席巻し、古き良き伝統を残しながら、新しいスターとして将棋界のイメージを一新することに成功した。
そして、藤井聡太は……
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最近の金融・投資【令和6年8月第1週】 [金融・投資]
〔先週の株式市場〕
先週は2日プラス、3日マイナス。
ですが、このマイナスが日経平均歴代2位の下げ幅で、自分の持ち株も今年のプラスの40%が吹き飛びました。数百万クラスです。まあ、まだまだプラスだからいいんだけども。
それにしてもマスコミは「円安是正!」「異常な金融緩和政策の正常化」を言い続けたわけですが、日銀が利上げして円高に振れたとたんにこれです。
マーケットは素直ですからね。自分のお金で勝負しているひとたちと、傍観者との違いといいますか。
ということで、ここはチャンスと買いに走ります。はい。
〔商船三井から株主優待が届いた話〕
クルーズ船にっぽん丸の割引券がもらえる。
1枚10%で2枚届きます。
とはいえ、クルーズ船は高いし、現役時代はクルーズ船でのんびりする時間もないし。
けど両親がサービス券が欲しいというのでプレゼントです。
10%でもクルーズ代1名当たり数十万なので、万単位になるんだよなあ。
考えてみると、でかいかも。
先週は2日プラス、3日マイナス。
ですが、このマイナスが日経平均歴代2位の下げ幅で、自分の持ち株も今年のプラスの40%が吹き飛びました。数百万クラスです。まあ、まだまだプラスだからいいんだけども。
それにしてもマスコミは「円安是正!」「異常な金融緩和政策の正常化」を言い続けたわけですが、日銀が利上げして円高に振れたとたんにこれです。
マーケットは素直ですからね。自分のお金で勝負しているひとたちと、傍観者との違いといいますか。
ということで、ここはチャンスと買いに走ります。はい。
〔商船三井から株主優待が届いた話〕
クルーズ船にっぽん丸の割引券がもらえる。
1枚10%で2枚届きます。
とはいえ、クルーズ船は高いし、現役時代はクルーズ船でのんびりする時間もないし。
けど両親がサービス券が欲しいというのでプレゼントです。
10%でもクルーズ代1名当たり数十万なので、万単位になるんだよなあ。
考えてみると、でかいかも。