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【ショートミステリ】齊藤想『A棟の四〇二号室の住人』 [自作ショートショート]

TO-BE小説工房(第54回)に応募した作品です。
テーマは「隣人」でした。

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『A棟の四〇二号室の住人』 齊藤 想

 道路に面したA棟の四〇二号室の窓はいつも開いている。その窓から毎日のように母子が顔を出してる。
「ねね、ママ、バスだよ」
「うん、バスだね」
 おかっぱの女の子は大きな車が好きなのか、すぐ隣を走る国道を見ては黄色い声を上げる。それを長い黒髪が印象的な母親が、娘を包み込むような優しい相槌を打つ。その様子を、高島由紀子は毎日のように見上げていた。
 由紀子の夫は日本を代表するメーカーに勤めている。
 万単位の従業員がいるだけに社宅も大きく、ひとつの社宅に様々な職員が住んでおり勤務先も出勤時間もバラバラなので、同じ会社なのに隣同士でまったく知らないことが多々ある。四〇二号室の住人について、旦那に聞いても首を横に振るだけだ。
 今日も母子は顔を出している。子供が欲しいのになかなか授からない由紀子は、その光景をほほえましく思いつつも、うらやましく感じてしまう。だから余計に目につくのかもしれない。
「ねえ、ママ、トラックだよ。トラーック」
 女の子は小さな身体を伸ばし、一生懸命に車を指差す。二歳ぐらいだろうか。母親は娘が落ちないように、しっかりを胸に抱いている。
 二つの顔が寄り添って並んでいる。大きい顔と、小さい顔。
「うん、トラックだね」
 由紀子はだんだんと辛くなり、足早にA棟の前を通り過ぎた。
 旦那の帰りは遅い。由紀子は夕飯の用意をしながら、旦那に話しかける。行動範囲の狭い由紀子にとって、話題と言えば社宅内のことしかない。そうなると、どうしても四〇二号室のことに触れたくなる。
「ところでA棟の四〇二号室の奥さんだけど、最近髪の毛を切ったみたいなの」
「そりゃ、人間だもの。髪の毛ぐらい切るだろう」
 旦那に話しても、反応はそっけないものだ。むしろ避けているように感じる。
「だって、あんなに綺麗な黒髪を切り落とすんだもの。きっと何かがあったのよ」
「何かねえ」
「もしかして、二組の夫婦が住んでいるということはないかしら。だって、昔は部屋が足りなくてそういうときがあったんでしょ?」
「それはバブル時代の話だ。いまはもうない」
「四〇二号室の旦那さんはどんな人かしら」
 食事をしていた旦那が箸を茶碗の上に置いた。その仕草に、押し殺したような怒気をはらんでいる。
「あんまり他人の家について、詮索しないことだ。おれが四〇二号室について知ることは何もない。もう寝るぞ」
 夜更けの食卓には、料理が半分以上も残されていた。

 由紀子が住むB棟が建て替えることになった。市営住宅を斡旋されたが、駅から離れて不便になるのと、最近自殺者が出たという噂を聞いて由紀子が難色を示した。すると、A棟の四〇二号室をあてがわれた。
 その部屋にはあの母子が住んでいるはずではないか。これはどう考えてもおかしい。旦那を問い詰めると、ようやく重い口を開いた。
「あそこは、会社の帳簿上は無人なんだ」
「それってどういうこと?」
 もしかして幽霊、という考えを旦那は苦笑いで否定した。
「実は以前住んでいた夫婦がボランティアに積極的で、行く先のない母子家庭を一時的に預かっていたんだ。もちろん会社的にはNGな行為だが、強制的に追い出すわけにもいかずに黙認してきた。ところが、その夫婦が突如として交通事故で死亡して大騒ぎだ。
 いろいろ問題はあったものの、いきなり母子家庭を外に出すのもかわいそうと、行き先が見つかるまで特例で住み続けるのを許してきたんだ。とにかく大変だった。総務課が市役所と掛け合って、市営住宅の申し込みから生活保護の手続きまで全部代行して、とにかくてんやわんやで」
 たぶん、その総務課の職員とは旦那のことだ。A棟の四〇二号室について口が重くなる理由も理解できた。
「じゃあ、無事に黒髪の奥さんとおかっぱの娘さんの行き先も決まったわけね。今日も窓から車を見ていたから、心配していたの」
 それを聞いた旦那は不思議そうな顔をした。
「先週には退去している筈だけどなあ。お前、本当に母子を見たのか?」
 由紀子は、市営住宅で自殺があったことを思い出した。

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