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【掌編】齊藤想『空の夢』 [自作ショートショート]

TO-BE小説工房(第48回)に応募した作品です。
テーマは「空」でした。

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『空の夢』 齊藤 想

 病室の中央では、だるまストーブが煌々と炎を上げ続けていた。天板に乗せられホーロー製の薬缶が湯気を吹き、薄い窓ガラスに水滴をつける。
 水蒸気を取り込み、成長した雫が重力に負け始める。周囲の水粒を巻き込みながら体積を増し、最後は窓枠を濡らして消える。
「今日のご機嫌はいかがですか」
 安政生まれという小太りの婦長が、龍之介に声をかける。婦長の兄は彰義隊に参加し、上野の山で戦死したという。
「気分は悪くない」
 そう言うそばから、龍之介は咳き込む。口元から腐臭が漂う。匂いは日を追うごとに強くなっている。もう長くない。自分の体は自分が一番良くわかる。
「じきに良くなりますよ。人生なんてものは、息を吸って吐いてなんぼのものですから」
 龍之介は直接答えず、顔を横に向ける。暗く沈み切った空気が、空の青さを際立たせている。
 こんな日に空を飛べたら、どれだけ気持ち良いだろうか。
「今日は特に青いな」
「空気が澄んでいるのは冬だからよ。それはそうと、辰野さんが好きそうなニュースを持ってきてあげたわ」
 龍之介は婦長が持ってきた新聞を開く。そこには大きく、亜米利加国でライト兄弟が世界で初めて有人動力飛行を成功させた記事が美文調で語られていた。
「少し先を越されたわね」
 婦長は年甲斐もなく、いたずら娘のようにささやく。龍之介も世界初を友人動力飛行の実現を目指して研究を進めてきた。ところが孟宗竹の骨組みに和紙を貼って作った大羽で滑空中に墜落し、胸部を強打。さらには肺炎にも侵された。
 入院中に世界初は奪われた。龍之介は新聞を婦長に返した。
「おれの人生は無駄に終わった」
 龍之介はうっすらと東西に伸びる筋雲を見上げた。スズメが雲の筋を直角に横切り、そのまま飛び去って行く。
「死ぬようなことを口にしたらダメですよ」
「そんなことを言っても、本当に死ぬのだから仕方がない。人間いつかは死ぬ。早く死ぬか、遅く死ぬかの違いにすぎぬ」
「どこかの誰かが言ったことを真似しても、心には響きませんよ。辰野さんの仕事は一日も早く体を治すことです。そのためには、まずは体を清潔に保つことです」
 婦長はそう言いながら濡れタオルを渡してきた。龍之介はおっくうそうに顔を拭う。
「おれはねえ」と龍之介はこぼす。ついついこの婦長には本音を話したくなる。
「悔しいんだよ。世界で初めて空を飛ぶ人間になりたかった。世界史に名前を残したかった。そのために必死に研究をしてきた。それがすべて無駄になった。おれは名のない一市民として、数十年もすれば、まるで春先の雪のように消えてなくなる」
「困った坊やね」
 婦長は駄々っ子をあやすような顔になった。
「私の兄はねえ、上野で戦死したの。バカみたいでしょ? 負け戦と分かっているのに、徳川様に特段の御恩があるわけでもないのに、寛永寺に駆け込んで、なれない鉄砲を抱えて、挙句の果てに流れ弾に当たって死んだ。本当に無意味な人生だと思った
 けどねえ、そうした名のない市民の声や行動が、世の中を動かすエネルギーになったんじゃないかと、いまでは思うの。確かに兄は無駄に命を落とした。けど、兄のような馬鹿がたくさんいて、初めて時代が動いていくんだって」
「すると、おれは時代を動かす燃料みたいなものか」
「そうそう、ガソリンよ。有人動力飛行だって好事家が世界中で研究したことでそういう空気ができ、その空気の中でたまたまライト兄弟が一番最初に成功しただけ。ある意味では、ライト兄弟の成功も、辰野さんのおかげなのよ」
「しかし、直接には関係ない」
「関係なくない。空気は世界中につながっている。時代の空気は一人では作れない。まあ、辰野さんが本当に空気になるのはまだ早すぎるけどね」
 婦長はそれだけいうと、龍之介の肩に手を置き、次に室内の全員からタオルを回収して次の病室へと向かった。
 自分はこれからも空気に作り出す一員になれるのだろうか。時代を後押しする一人になれるのだろうか。
 龍之介は、それを確かめるために、もう少し生きたいと願うようになった。
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