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【SF】齊藤想『祖母の神様』 [自作ショートショート]

第5回星新一賞に応募した作品です。
思いのほか進んでいる江戸時代の天文学を題材にしています。
知ればしるほどびっくりです。

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『祖母の神様』 齊藤想

 このようなことを県立天文台の館長を務められている貴職に質問するのは筋違いもしれません。
 しかし、同じ高校でともに白球を追い続けた古い知己に頼り、また館長が日本における天文観測の歴史の第一人者と聞き及ぶにつれ、ぜひともご意見を伺いたくお手紙を差し上げました。
 ご相談したいのは、曽々祖父が発見したという神様についてです。分かりやすく書くと四代前の先祖になります。
 彼は激動の時代であった幕末から明治を生きた商人でした。商人が神様を発見したとは奇妙な話かもしれませんが、祖母からそう聞いたのです。国を堅く閉ざし、技術も未熟だった江戸時代に何を発見したのかと奇異に思われるのが普通です。
 ですが、調べ始めると面白いのもので、江戸時代は現代人が想像しているより科学技術が発達していることが分かりました。お茶を運ぶからくり人形などは、日本工芸史上に残る傑作だと思います。
 しかし、素人の調査には限界があります。
 四代前が発見した神様の正体とは何か。本当に神様を発見したのか、それとも何かの見間違いなのか。
 調査が暗礁に乗り上げたときに頭に浮かんだのが、貴職のことでした。
 職務を離れた個人的なことで大変恐縮ではありますが、話だけでも聞いていただけると幸いです。

 説明のために、祖母から聞いた話を書きます。当時、私は高校生三年生でした。
 野球部を引退し、時間を持て余していた私が久しぶりに祖母の家に顔を出したところ、祖母が真面目な顔をしてこう切り出しました。
「神様は江戸時代に発見されたんだよ」
 しかも、神様の発見者は私の先祖だと言うのです。タカシは高校で一生懸命勉強しているから、実際に頑張ったのは野球なのですが、きっと先祖の大発見を証明してくれるだろうと期待しているようでした。
 祖母の名前は彩矢といいます。いつも彩矢ばぁと呼んでいます。
 彩矢ばぁによると、先祖は貧しい農家の三男として生まれたそうです。誕生は天保年間ですから江戸時代の後半から末期に当たります。
 当時の農民は、貴職もご存じの通り、貧しいというわけではありませんが、かといって裕福ではありません。余裕のある家庭は限られています。
 先祖の家の田畑は狭く、現金収入につながる換金作物もありません。曽々祖父の家は、残念ながら貧しい農家のひとつでした。
 両親に三男を育てる力はありません。先祖は幼くして大阪に出て、ある質屋に丁稚奉公をすることになりました。
 その商家の主人は学問好きで、見込みのある若者には勉強を奨励していたそうです。先祖は主人に見込まれ、独自に学問の手ほどきを受けるようになりました。その商家は代々天文観測を趣味としており、独自の観測機器を開発し、民間人でありながら日本の天文学を引っ張るような存在だったようです。
 店主は多くの業績を残したそうですが、彼はそれだけの天文学と数学の知識を有していました。残念ながら、わが家にその商家の名前は伝わっていません。
 その後、江戸幕府が崩壊し、様々な混乱の中で先祖は暇を出されました。現在の言葉に直すと失職です。武士の一部は新政府に雇われて民間人が羨むような高給を手にしましたが、新政府の恩恵は下々にまで行き渡りません。
 特に先祖は厳しい立場に追い込まれました。なにしろ商家の仕事にはほとんど手をつけず、天文観測と学問に明け暮れた人間です。これといった技術もつてもなく、失職後は大変な苦労をしたようです。
 他の奉公人からの評判も良くありません。
 同僚からすれば、先祖は本業の手伝いをせず、主人の寵愛をよそに遊びほうけていたようなものですから、時代が変わると同時に路頭に放り出されるのは当然だったかもしれません。だれも助けてくれません。雇主だった質屋の主人も、代が替わり、その頃には先祖を助ける余裕がありませんでした。
 先祖が経済的にひとごこち付いたのは、明治も中頃になってからです。
 商家の主人に見込まれただけあって先祖は優秀な人間だったらしく、自ら商売を起こし、それなりの成功を収めたそうです。
 苦労を重ねているうちに、先祖は老人になっていました。
 商売は長男に託して隠居し、悠々自適の日々を過ごしていたそうですが、突如として若い頃の情熱が蘇り、天文観測を自費で再開したそうです。
 じっとしていられない性分だったのでしょう。盆栽いじりに飽きたのかもしれません。
 時間も金も余裕がある中で、自ら天文観測をするのと同時に、質屋の主人が残した観測記録や、江戸幕府に秘蔵されていた各種書面の写しを入手して研究しました。その結果、先祖は驚くことべきことを発見したのです。
「この世には神様が存在する」
 しかも、江戸時代には既にその痕跡が記録されていたというのです。いままで誰も気が付かなかっただけで、見えるひとには明瞭に読み取れるほどの足跡だったそうです。
 先祖はその”発見”に夢中となりました。蔵に蓄えられた莫大な金銀を食いつぶしながら望遠鏡を自作し、観測し、神様の存在を”証明”することに熱中しました。
 しかし、その頃には、江戸時代にともに研鑽してきた天文観測仲間はこの世になく、先祖の研究を理解してくれるひともいませんでした。
 しかも内容が内容です。おまけに、当時の日本には、江戸時代は全て悪だという空気が充満していました。
 あまりに時期が悪すぎる。
 先祖は発表の機会を待つべく、研究結果を自宅にしまい込みました。しかし、発表する機会はついに訪れませんでした。時代の歩みは先祖の寿命を待ってくれませんでした。
 息子からすれば、財産を食いつぶす父親の趣味を快く思うわけがありません。先祖が研究を抱いたまま死亡すると、後取りは天文学など疫病神とばかりに、先祖が丹精込めて作り上げた観測器具と観測記録は、土蔵の倉庫に捨てておかれました。
 そして、太平洋戦争の空襲で、全て灰燼に帰しました。
 いま残っているのは、祖母が教えてくれた語り聞きのみです。先祖は、神様の正体について、祖母にこう伝えたそうです。
「見ることも、触ることも、音を聞くこともできないが、確実に存在する。それは、天球運行表を見れば読み解ける。神様は大いなる力で、宇宙を支配している」
 私個人の感想を問われれば、もちろん神様の存在を信じることはできません。その一方で、先祖が何らかの発見をしたことを確認したい気持ちもあります。
 先祖は何を見て、何を発見したのでしょうか。
 結論を求めるものではありません。強いて回答を求めるものでもありません。もちろん職務とは何ら関係がありません。
 それでも、自分の好奇心を抑えることができません。
 勝手なお願いで大変恐縮ですが、貴職のご意見をお聞かせ願えれば幸いです。よろしくお願いいたします。


 お手紙ありがとうございます。興味深く拝見させていただきました。
 高田君のことならよく覚えています。確か二学年下で、練習試合でファールフライを追いかけることに夢中になり、相手チームの監督にダイブして一撃でノックアウトしたのは野球部の伝説になったと聞いております。
 その高田君がいまでは県幹部職員となり、部署は違えとともに仕事をするのですから人生とは面白いものです。
 さて本題に移りますが、実は高田君のご先祖様が発見したものの正体がおぼろげに見えてきました。
 種明かしをする前に、まずはご先祖様の奉公先について説明しましょう。
 天文観測好きの質屋は存在します。それは十一屋という大阪の豪商です。
 特に有名なのが、寛政から文化にかけて活躍した七代目の間重富です。通称は十一屋五郎兵衛とよばれていました。倉が十一個もあったことから十一屋と呼ばれたのですが、重富の代には十五個まで増えました。
 彼は後取りのボンボンではありません。若くして父を失い、家業を継いだのは彼がまだ十代のころでした。かなり優秀な人物だったようで、火災であらかた失った家財を一代で立て直すなど、順風満帆だけでなく苦労を知る有能な経営者でもありました。
 間重富は単なる天文好きの豪商といったレベルではありません。
 江戸幕府で天文方をしていた高橋至時とともに寛政改暦を完成させ、さらに高橋至時の亡きあとは商人でありながら幕府天文方の指導者となり、実質的に幕府の天文研究を取り仕切っていました。晩年には日本で一番の天文学者となったのです。
 とくに観測器具の制作に優れた指導力を発揮し、天文観測専用の振り子時計「垂揺球儀」や、天体の地平から高度を測る「象限儀」などを完成させました。
 ご先祖様が仕えたのは、おそらくは重富の息子、重新の晩年でしょう。重新は若い頃から父の補佐をしながら天文学を学び、オランダ製の屈折式望遠鏡や、イギリス製の反射式望遠鏡を所有して数々の業績を残しました。白昼の水星南中観測を成功させ、未完に終わったものの、清濛気差と呼ばれていた空気の揺らぎによる光線の屈折を研究しました。
 鎖国時代というと海外の文物は入ってこないと勘違いされがちですが、厳しかったのはキリスト教だけで、宗教と無関係な文物については比較的寛容でした。特に科学技術関係は積極的に輸入され、江戸幕府の翻訳センターともいうべき蕃書調所は三千冊以上もの洋書を所有していました。
 もっともこれは昭和二十九年に上野図書館で発見された洋書だけであり、大政奉還の混乱時に散逸した可能性を考えると、倍以上あってもおかしくありません。また、幕府が入手していなくても、諸藩や民間人が所有していた本もあります。当時の日本には一万冊以上の洋書が出回っていたものと推測されます。
 天文観測は江戸幕府にとっても重要な仕事です。星空を観測し、日誌を付け、その記録を基礎資料として新たな暦を作っていました。
 当時の日本人の大多数である農民は、暦をもとにして種をまき、作物を育てます。暦には春分の日や秋分の日だけでなく、月食や日食の予測まで書かれています。しかも食の範囲と時刻もです。予測が的中してこそ、農民たちは暦を信じ、安心して作物を育てることができます。
 当時の日本にとって、暦とは政治そのものでした。
 暦の権威を守るためには、予測が正確でなければなりません。
 江戸幕府はさらに精度を上げるため、専用の天文台を建設しました。しかも周囲の環境が変わり、観測に不向きとなると移転するほど力を入れていました。
 天明二年に完成させ、後に司天台と呼ばれた浅草の天文台は、二百町四方の敷地に三丈一尺の露台を築いていました。そうした専門施設で、江戸幕府は星空を日々観察していたのです。
 重新の次代からは幼い当主が続き極端に衰えましたが、それでも間家は幕府から天文観測の命令を受けて星空の記録を取り続けていました。ご先祖は重新に才能を認められて天文観測に従事するようになったのですから、幕末まで続けた可能性が高いです。
 高田君は伊能忠敬が作成した伊能図をご存知でしょうか。
 現代地図と見間違えそうな精巧な図面ですが、この地図が作成されたのは間重富の時代です。それもそのはずで、伊能忠敬は間重富の弟子なのです。
 あれだけの図面を作れたのは、間重富が仕込んだ天文観測技術があってこそです。
 伊能忠敬は地上の測量と平行して天文観測を実施し、随時、緯度経度を補正することで誤差を修正しました。もちろん、伊能忠敬は地球の大きさを知っていました。ただ知るだけでなく、実地測量で確かめることもしました。
 江戸末期は、欧米から次々と新しい知識が入り込む時代でもありました。
 間重富の晩年にはすでにニュートン力学が日本に伝わっていました。ケプラーの第三法則にいたっては、日本に伝わってくる前から発見されていました。地球の軌道が真円ではなく楕円であることは間富重の時代から遡ること一〇〇年前の五代将軍徳川綱吉の時代には観測されていました。さらにその楕円軌道の軸が毎年変動していることも、公転が等速運動ではないことも知られていました。もちろん彗星の軌道も計算できました。
 ご先祖様が仕えていたと思われる重新のころには天王星の観測も始められており、理論値と実測値が異なる原因について議論されるレベルに到達しています。
 高田君も言われているように、一般に流布されているような江戸時代が無知蒙昧の時代という認識は誤っています。長年の平和のおかげで、新進気鋭に富んだ科学者が多数輩出された時代でした。
 ですから、ご先祖様がどのような発見をしていたとしても、驚くにはあたりません。
 観測技術はいまより劣りますが、彼らには時間があります。同じ星を百年単位で追い続けるという気の長い観測は、現代人にはまねできません。
 確かに現在は観測精度が恐ろしいほど向上しています。しかし、時間軸の長い観測という意味では江戸時代に完敗です。歴史が違いすぎます。
 そういえば、ご先祖様が発見したものの正体をまだ述べていませんでしたね。手紙を書いているうちに楽しくなってしまい、ついつい長くなってしまいました。
 いまからご先祖様が発見したものを書きます。
 これはあくまで私の推測と、ある種の願望から述べるのですが、ご先祖様は「暗黒物質」を発見したのではないかと考えております。
 暗黒物質とは現在の天文観測技術をもってしても観測不可能ですが、質量を持ち、その重力でもって宇宙を動かしている物質です。天体観測を続け、星々の動き計算した結果、存在していると推定されている物質です。暗黒物質の特徴を並べていくと、ご先祖様が発見した神様と驚くほど一致します。
 古来より、人類は宇宙と神を結び付けてきました。ご先祖様が発見した「暗黒物質」を神様と呼んだのもある意味では当然だといえます。
「そんなことありえない」
 そう思われるのが普通です。しかし、科学の歴史とは、ありえないことが起こり続けてきた歴史でもあります。
 高田君はフェルマーの最終定理をご存じでしょうか。フェルマーは一六四〇年頃に数学上の問題についてある証明をなしえましたが、証明方法を残しませんでした。その問題がとてつもない難問で、後世の数学家が一斉に証明に取り組んだがまったく解けず、最終的に証明されたのが三百六十年後です。
 定説ではフェルマーの勘違いとされていますが、私は同意できません。
 小学校の図形問題である辺の長さを求めるとき、大学レベルの知識を用いれば計算で答えを導くことが可能です。しかし、この手の問題は、補助線を一本引いたり、図形の見方を変えたりすれば、瞬く間に解けるものなのです。
 フェルマーの最終定理にしても、我々は補助線をどこに引けばいいのか分からないだけで、フェルマーには一本の筋が見えていたような気がするのです。そうでなければ、真実であると証明されるわけがありません。仮定のほとんどは否定され、消え去る運命にあります。真実と証明されたこと自体が、フェルマーの発見が真である証拠だと私は思っています。
 暗黒物質についても同じです。
 常識的に考えれば、江戸、明治の観測技術で発見できるとは思えません。しかし、何らかの証明をしたことを否定することもできません。
 幕府最後の天文方であった山路家は、幕府瓦解とともに百年に渡って書き継がれてきた観測記録を廃棄してしまいました。間家も明治三十六年に直系が絶え、明治四十三年に裁判所の許可があり絶家となり資料が散逸してしまいました。いまとなっては、惜しい記録です。
 おそらくご先祖様は、間家のつてを頼って山路家の記録を独自に入手したか書き写したかをしたのでしょう。それに間家で続けられた観測記録を加えれば、数百年にも渡るデータが揃います。京都で暦の計算をしていた陰陽頭の土御門家の資料も手にしていたかもしれません。そうすれば千年単位のデータが得られます。
 すでにニュートン力学は知られていました。膨大なデータから様々な計算をして、見えないけど宇宙を動かす何かを見出したのかもしれません。
 それを、ご先祖様は「神様」と呼んだのでしょう。
 確かに暗黒物質の振る舞いは神様に似ています。何も言わず、何も聞こえないのですが、この世に存在して私たちを見守り続けています。そして、多いなる力で、宇宙の全てを動かしています。
 惜しむらくは、全ての記録が灰になってしまったことです。
 ご先祖の発見については、今後も謎のまま残ることでしょう。私も高田君のご先祖の発見に思いを馳せながら、研究に励みたいと思います。
 久ぶりに知的に興奮いたしました。またお手紙をいただければと思います。今度は日本酒を酌み交わしながら、ゆっくりと宇宙の話をしましょう。
 それでは、また。

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