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【掌編】齊藤想『フナムシ』 [自作ショートショート]

TO-BE小説工房(第33回)に応募した作品です。
テーマは「虫」でした。

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『フナムシ』 齊藤想

 足元をフナムシが走り抜けた。
 波が岩を洗うたびに、小さな虫たちが走りぬけ、ときおり注意力不足の個体が健吾の足にまとわりつき、慌てて逃げ出す。
 晩夏の荒波が磯に当たっては砕けていく。
 先ほどまで散乱していたフナムシの姿はもう見えない。
「ねえ、健吾」
 優華が健吾に話しかけた。この旅行が終わったら、二人は別々の道に進むことになっている。別離旅行みたいなものだ。
「ここにくるのは久しぶりだね」
 優華の黒髪が潮風に吹かれた。風元には岩だけの島が見える。その島に渡る小船を操る船頭が、期待を持った目で健吾たちを見つめている。
「あまりに昔過ぎて、忘れてしまったよ」
 健吾は遠い目をして答えた。いままで歩んできた二人の道のりは長かったのか、それとも短かったのか。人生時計の長短を判断できる人間は、この世にはひとりもいない。
 船頭が腕時計を覗いた。太陽が夕日に変わろうとしている。営業終了の時刻になったようだ。船頭は二人を乗せるのを諦め、島に渡っている観光客を迎えるために櫂を漕ぎ始める。ボートのような小船が、波間に揺れながら遠ざかる。
 二人の関係を清算しようと言い出したのは優華だった。不倫でもないのに”精算”という言葉を使うところが、デジタル的に物事を考える優華らしかった。
 優華と健吾は高校時代の同級生で、同じ水泳部で、気がついたら恋人同士になり、結婚して子供もできた。
 家族をつなぎ合わせてきた子供も大人になり、二人は第二の人生を考える年齢になっていた。あと何年生きられるだろうか、と健吾は思った。「いままで家族という枠組みを維持するために我慢してきたのだから、これからは好きなことをして暮らしましょう」というのが優華の意見だった。
 健吾は優華の意見に賛成し、最後に旅行をすることになった。
 こうして、思い出の地に立っている。
 夕日が完全に水平線の下にもぐるとき、二人は離婚する。そう約束した。
「フナムシは溺れるらしいな」
 健吾は唐突に口にした。
「いつも波間にいて、海と仲良しに見えるけど、実際は水を恐れる臆病者だ。いまは岩陰に身を潜めているけど、このまま満潮になったら海に溺れて死んでしまう」
「変な生き物なのね」
 優華は小さく笑った。岩陰からでてきたフナムシを捕まえようとしたが、小さな虫は十四本の脚を細かく動かして、素早く隣の岩陰にもぐりこんだ。
 彼は、潮が満ちてきて溺れる前に逃げ出した勇気ある個体なのかもしれない。彼の勇気に続くフナムシは見当たらない。首をすくめ、見慣れぬ生物が去るのを待っている。
 夕日は容赦なく沈んでいく。妻に伝えるべきことはないのか。自分の本心はどこにあるのか。健吾は心の中で反芻するが、何も浮かんでこない。
 観光客を迎えにいった船頭が、桟橋に戻ってきた。
 平日の最終便ということもあり、古い船から下りてきたのは家族連れが一組だけだった。大きい船は一隻で、小さな船は一艘と数えるのだったな、といういまの状況に関係ない知識を健吾は思い出した。
「あと十分ね」
 優華はそういいながら、目を泳がせた。何かを迷っている。
「あの日も二人の足元をフナムシが走り回っていた。それだけなのに可笑しくて、笑い転げ、勢いのまま告白して恋愛が始まった」
「いまさら思い出話をしたいの?」
「いいや、違う。別れるということは、もう一度、恋愛できるということだ」
 二人の間をフナムシが走り回る。コミカルなフナムシの動きも、いまの二人には笑いを誘わない。大人になったのだ。
「また付き合えというの? それはダメよ」
 優華はあっさりと首を横に振った。夕日が最後の光を大地に向って放とうとしている。優華が海面に手を伸ばして、海に浮かぶフナムシを掬い取った。フナムシは再び歩き始めると、岩陰に隠れた。
「だって、、あた夕日が沈みきっていないじゃない。いまは夫婦なのよ」
 長年連れ添った夫婦だ。これだけの返事があれば、意志は伝わる。溺れかけたフナムシは救出された。日が沈みまた昇るように、夫婦も再生していく。
 日没の時刻になっても、海面から漏れる夕日が、二人を紅く照らし続けた。

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