【掌編】齊藤想『変わりゆく町』 [自作ショートショート]
第3回星々短編小説コンテストに応募した作品で、一次選考を通過しました。
テーマは「地図」です。
ショートショートや掌編において、比喩の使用は必要最低限にするのが基本です。比喩は言葉のリズムを崩し、使い古された比喩は文章の質を下げます。
あえて文章の流れを止めるとき、ひときわ優れた比喩が思いつたときだけ使うのが原則になります。
ですが、本作ではあえて平凡な比喩を多用しています。
具体的な技法はこちらの無料ニュースレターで紹介します。次回は12/5発行です。
・基本的に月2回発行(5日、20日※こちらはバックナンバー)。
・新規登録の特典のアイデア発想のオリジナルシート(キーワード法、物語改造法)つき!
―――――
『変わりゆく町』 齊藤想
漠とした湖面を滑る風が、さざ波を引きつれながら、バス停でただずむ母娘を包み込んだ。空にはいまにも落ちてきそうな雪雲が垂れさがる。
小さなくしゃみをした娘に、美佐子はポケットティッシュを渡す。娘は小さな鼻をティッシュで軽く拭う。美佐子は、娘からしわくちゃになったティッシュを受け取る。
美佐子にとって、この町は死んだ町だった。
かつては特産のワカサギとナマズの水揚げで栄えた集落も、いまや廃墟が立ち並び、思い出の小学校や中学校も統廃合が相次いでいる。
帰りのバスを待つ愛娘のゆずきが、手持無沙汰を紛らわすかのように、膝の上で地図を広げた。その地図の上に、綿毛のような雪が舞い降りる。
手袋に包まれたゆずきの小さな手は、地図に積もった雪を払うことはなく、両手を口元に添えた。指の隙間から、煙のような息が立ち上る。
鼠色をしたコンクリートの街は徐々に雪に包まれ、いつしか白の割合が増えていく。
あと三十分もすれば、この町は完全に雪に覆われてしまうだろう。
美佐子はバスの時刻表を見た。まだ午後六時前だというのに最終便だ。
この町の高齢化は著しい。若者は仕事のある都市部に吸い込まれ、残っているのは動くことのできない老人ばかり。この町に元気を取り戻すと立候補した政治家たちは、若者たちにまともな仕事を与えることができず、一時金を配るという安直な手段で若者を取り戻そうとして見事に失敗した。
いまや、町役場でのアルバイトですら奪い合いだ。
過去にすがり続けた美佐子の両親は、小さな畑を耕し続けながら、新年を迎えた一月一日に二人で自殺をした。残されていたのは「全てに絶望して」と書かれた遺書だけだった。美佐子は気が付かなかったが、母子家庭である美佐子に送金するために、両親は無理をして借金を重ねてきたようだ。土地も建物も、知らぬ間に他人の手に渡っていた。
故郷に残るのは、両親の墓のみ。贖罪の意味を込めて、美佐子は両親の命日である正月に墓参りを続けてきた。
冬になると雪が降るこの町では、バス停には待合室は欠かせない。しかし、予算不足のためか窓は割れ、屋根は破れたままになっている。鉄柱には所狭しと古びた風俗のチラシが貼られている。この町には風俗のチラシを見る人もはがす人もいない。怪しげな携帯の番号が、寒風に揺られてハチドリのようにはためく。
美佐子は手袋の上からゆずきの手を覆った。手袋を挟んでいても、骨まで冷えているのが分かる。
ゆずきは、道路の反対側にある四階建てのビルを見上げている。バブル時代の遺産で、いまや寂れ、テナント募集の看板がむなしく揺れる。
このビルが廃墟になってから長い年月がたつ。元々は何の用途で建てられたのか、思い出すことすらできない。
ゆずきの唇から、白い息が漏れた。
「少し雰囲気が変わったね」
意図がつかめず、美佐子は問い返す。
「雪が積もってきたから、ということかな」
「ううん、そうではなくて」とゆずきは首を軽く横に振る。
「去年まであそこの角に小さなビルがあったじゃない。それが無くなっている」
確かにそうだ。去年までは交差点の角に小さなビルがあった。その土地が更地になり、工事用のフェンスで覆われている。この出し殻のような街に新しいビルが建つことに、美佐子は驚いた。
「そのビルがお墓になればいいのにね」
ゆずきが冗談を言う。両親の墓は、バス停から歩いて三十分以上もかかる。タクシーを使えば楽なのかもしれないが、シングルマザーである美佐子にとって、タクシーを使うことの経済的負担は大きい。
年一回の墓参りとはいえ、贅沢する余裕はない。普通列車とバスを乗り継いで日帰りにするために、アパートを早朝に出て、夜の最終便で帰るのがいつものパターンだ。
両親が自殺したのはゆずきが産まれる前だ。ゆずきは祖父母を写真でしか知らない。それでも、ゆずきに寂しい思いをさせないように、墓参りには欠かさず連れていき、両親の思い出を伝え続けた。
素直なゆずきは話をよく聞き、いまでは、まるで生前の祖父母を知っているかのように話してくれる。
けど、この墓参りも十三回忌でひと区切りだ。そろそろ終わりにして、この町との縁を切らなくてはならない。過去を断ち切らないと、いつまでも同じ場所に立ち止まってしまいそうな気がする。
まるで、いつまでも変わらない、ゆずきの膝にある地図のように。
美佐子は気持ちを切り替えて、ゆずきに答える。
「さすがにお墓はないと思うけど、何ができるのかママも楽しみ」
「寂れていく一方なのに、変だね」
ゆずきは不思議そうな顔をした。雪はますます強くなっている。ゆずきの膝の上にある地図に雪がつもる。地図の記号が白く覆われていく。
「そういえば、三十年ぶりみたいね。三十年前といったら、私が生まれるずっと前。お母さんがまだ子供だった時代」
「えっ、何の話?」
「この雪だよ。三十年ぶりだって、さっきお母さんが言っていたじゃない」
ゆずきは軽く笑った。ゆずきが笑うと、膝の上にある地図も揺れて、積もっていた雪が足元に流れて小さな山を作る。
ゆずきの膝の上にある地図は、美佐子が持たせたものだ。
インターネットでなんでも検索できる時代。だが、美佐子にはゆずきに携帯電話を持たせるだけの余裕がない。代わりに紙の地図を持たせている。美佐子が子供のころに作られた古い地図だ。
ゆずきは、古い地図を貴重な資料と受け取っているようだ。扱いとしては、博物館の展示物と変わらない。
「あ、バス」
雪の向こう側に、二つのライトが見えた。タイヤに巻かれたチェーンが、ガチャガチャと中世の騎士たちのような音を鳴らしながら、雪をかきあげている。
美佐子はゆずきを立たせた。大きな車体が二人の視界を覆う。制帽を目深に被った乗務員が下りてくる。
ゆずきが地図を畳むと、雪がすっと落ちていった。ゆずきは寒さを堪えかねたのかすぐに乗り込もうとして、乗務員に止められた。
「えーっと、名古屋行きのお客様はいますか?」
「名古屋行き?」
「ええ、そうですが」
問い返す美佐子に、乗務員は不思議そうな顔をして返答した。
「ママ、間違えちゃったね」
ゆずきがいたずらっぽく笑う。
バスは細かな振動を残して走り去った。再び寂れた町が視界に広がる。
美佐子は思った。長距離夜行バスは二十年前に廃止されたはず。それが名古屋行に限って復活したのだろうか。最近の名古屋は元気とはいえ、あまりに唐突だ。
「ねえねえ、ママ。よく見るとあの場所も変わったね」
ゆずきが指す方向を見ると、小さな農産物センターがあった。美佐子の記憶では、この農産物センターは後継者がいないため、数年前に廃墟になっているはず。それが煌々と明かりがつき、真新しい建物になっている。
だれかが経営を引き継ぎ、新しく塗りなおしたのだろうか。
それにしても、いままでなぜ気が付かなかったのか。このバス停にきて十分はたっている。目に入るものは限られている。日が落ちて暗くなり、明かりがついたから目に入ったということだろうか。
しばらくして、またバスが来た。
前のバスと同じようにゆずきが乗ろうとして、また乗務員に止められた。
「広島行きです」
「また間違えちゃった」
ゆずきは軽く舌を出した。美佐子はバスの時刻表を見た。何度も見た。横から見ても斜めから見ても、地域巡回バスの時刻表しかない。
美佐子は出発しようとしている乗務員に尋ねた。
「すみません、本当に広島行きなのですか?」
「もちろんです。行先案内板を見てください」
乗務員はフロントガラスの上部を指した。確かに広島行きと書いてある。だが、どこか書体も車体も古めかしい。
「いまは何年ですか?」
「そんなの五年に決まっているじゃありませんか」
「それは令和ですか、平成ですか」
乗務員は笑った。話にならないと思ったのか、バスは走り去っていった。
「ねえねえ、ママ。あそこも変わっている」
美佐子は見たくなかった。だが、見るしかなかった。すると、先ほどまではたしかに道路だったところが畑になっている。ありえない変化だ。
美佐子はゆずきの体を抱きしめた。もしかしたら、二人して凍傷になりかけているのではないか。低体温症のせいで、認知障害が起こっているのではないか。
美佐子は必死に娘を抱きめした。そして体をさする。
「どうしたの、痛い」
「死ぬよりいいでしょ」
「そんな、大げさなこと言わないでよ」
「だって、だって……」
美佐子はバス停をぐるりと見渡した。雪が深くなるとともに景色が変わっていく。先ほどまで工事中だったビルは、いつの間にかに更地になっていた。農産物センターは新しくなる前の、先代の建物に化けた。
恐ろしい勢いで、時代をさかのぼっていく。それをゆずきは無邪気に楽しんでいる。二人はとんでもない世界に入り込んでいる。
これは地図だ。ゆずきに渡した地図の時代に遡ろうとしているのだ。地図の世界に引きづりこまれていく。
「ねえねえ、ママ……」
もうやめて。目をふさぎたかったが、不思議な力が美佐子の意思に抗う。ただ気が狂わないようにと、正気を保つのがが精一杯だった。
ふと気がつくと、地図が地面に落ちていた。深々と降り積もる雪は、またたくまに地図を埋めていく。地図が白く染まるともとに、町からビルが消えていく。過去に遡っていく。
「ねえママ、音が聞こえる」
美佐子は耳を澄ませた。何かが遠くから近づいてくる。これはエンジン音ではない。それよりもっと懐かしい音。
「あ、電車!」
灰色の雲に警笛が響いた。その警笛は雪のカーテンに乱反射し、美佐子の方向感覚を狂わせる。
「ここだよ、ここ」
ゆずきは正面を向いていた、。そこは、ずっと昔に駅があった場所。つまりいま二人が立つバス停だ。
一両しかないディーゼル車両は、雪をかき分けながら進み、二人の前にとまった。そこから老夫婦が下りてきた。
「あ、おじいちゃんとおばあちゃん」
美佐子は眼を疑った。そこにいるのは、まぎれもなく両親だった。両親はよく来てくれたね、とゆずきのことを抱き上げた。初めて会うはずなのに、その様子は、昔から慣れ親しんだ孫と祖父母の姿だった。
「美佐子や、いままでありがとう。もう十分に尽くしてくれたから」
母はそう言った。確かに耳に聞こえた。雪がさらに激しくなり、両親と電車をすっぽりと包み込んだ。両親は小さく手を振った。
それが合図のように、突如として雪がやんだ。
ゆずきは何事もなかったように、破れかかったバラックのベンチに座っている。疲れたのか、少し首を傾けている。
「寝たら風邪を引くよ」
美佐子が体を揺り動かすと、驚いたのように目を見開いた。
「ねえねえ、いまねえ、すごい夢を見たんだよ」
美佐子はバス停の周りを見た。古いビルはまだ建っている。農産物センターは閉鎖されたままだ。道路もちゃんと伸びている。
美佐子は気が付いた。いままで三十年前にタイムスリップしていたのだ。それは両親が孫に会うために。
「お母さんも少し夢を見ていたんだ。それは、大人のままで三十年前に戻る夢」
「へえ、大人になっても夢をみるんだ」
「この雪のせいかもね」
美佐子は綿毛のような雪を掬った。きっと、この結晶には不思議な力がある。まるで緞帳のように世界を覆いつくし、新しい世界を描く力が。
その力を利用して、両親がやってきたのだ。三十年ぶりの大雪と、ゆずきの手もとにある古い地図を通して。様々な要素が重なり合った、小さな奇跡。
小さなクラクションが聞こえてきた。二つのヘッドライトが近づいてくる。今度こそ間違いない。フロントガラスには、最寄り駅行の表示が輝いている。
ゆずきの手にある地図は、まるで力を使い果たしたかのように、濡れてクチャクシャになっていた。
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テーマは「地図」です。
ショートショートや掌編において、比喩の使用は必要最低限にするのが基本です。比喩は言葉のリズムを崩し、使い古された比喩は文章の質を下げます。
あえて文章の流れを止めるとき、ひときわ優れた比喩が思いつたときだけ使うのが原則になります。
ですが、本作ではあえて平凡な比喩を多用しています。
具体的な技法はこちらの無料ニュースレターで紹介します。次回は12/5発行です。
・基本的に月2回発行(5日、20日※こちらはバックナンバー)。
・新規登録の特典のアイデア発想のオリジナルシート(キーワード法、物語改造法)つき!
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『変わりゆく町』 齊藤想
漠とした湖面を滑る風が、さざ波を引きつれながら、バス停でただずむ母娘を包み込んだ。空にはいまにも落ちてきそうな雪雲が垂れさがる。
小さなくしゃみをした娘に、美佐子はポケットティッシュを渡す。娘は小さな鼻をティッシュで軽く拭う。美佐子は、娘からしわくちゃになったティッシュを受け取る。
美佐子にとって、この町は死んだ町だった。
かつては特産のワカサギとナマズの水揚げで栄えた集落も、いまや廃墟が立ち並び、思い出の小学校や中学校も統廃合が相次いでいる。
帰りのバスを待つ愛娘のゆずきが、手持無沙汰を紛らわすかのように、膝の上で地図を広げた。その地図の上に、綿毛のような雪が舞い降りる。
手袋に包まれたゆずきの小さな手は、地図に積もった雪を払うことはなく、両手を口元に添えた。指の隙間から、煙のような息が立ち上る。
鼠色をしたコンクリートの街は徐々に雪に包まれ、いつしか白の割合が増えていく。
あと三十分もすれば、この町は完全に雪に覆われてしまうだろう。
美佐子はバスの時刻表を見た。まだ午後六時前だというのに最終便だ。
この町の高齢化は著しい。若者は仕事のある都市部に吸い込まれ、残っているのは動くことのできない老人ばかり。この町に元気を取り戻すと立候補した政治家たちは、若者たちにまともな仕事を与えることができず、一時金を配るという安直な手段で若者を取り戻そうとして見事に失敗した。
いまや、町役場でのアルバイトですら奪い合いだ。
過去にすがり続けた美佐子の両親は、小さな畑を耕し続けながら、新年を迎えた一月一日に二人で自殺をした。残されていたのは「全てに絶望して」と書かれた遺書だけだった。美佐子は気が付かなかったが、母子家庭である美佐子に送金するために、両親は無理をして借金を重ねてきたようだ。土地も建物も、知らぬ間に他人の手に渡っていた。
故郷に残るのは、両親の墓のみ。贖罪の意味を込めて、美佐子は両親の命日である正月に墓参りを続けてきた。
冬になると雪が降るこの町では、バス停には待合室は欠かせない。しかし、予算不足のためか窓は割れ、屋根は破れたままになっている。鉄柱には所狭しと古びた風俗のチラシが貼られている。この町には風俗のチラシを見る人もはがす人もいない。怪しげな携帯の番号が、寒風に揺られてハチドリのようにはためく。
美佐子は手袋の上からゆずきの手を覆った。手袋を挟んでいても、骨まで冷えているのが分かる。
ゆずきは、道路の反対側にある四階建てのビルを見上げている。バブル時代の遺産で、いまや寂れ、テナント募集の看板がむなしく揺れる。
このビルが廃墟になってから長い年月がたつ。元々は何の用途で建てられたのか、思い出すことすらできない。
ゆずきの唇から、白い息が漏れた。
「少し雰囲気が変わったね」
意図がつかめず、美佐子は問い返す。
「雪が積もってきたから、ということかな」
「ううん、そうではなくて」とゆずきは首を軽く横に振る。
「去年まであそこの角に小さなビルがあったじゃない。それが無くなっている」
確かにそうだ。去年までは交差点の角に小さなビルがあった。その土地が更地になり、工事用のフェンスで覆われている。この出し殻のような街に新しいビルが建つことに、美佐子は驚いた。
「そのビルがお墓になればいいのにね」
ゆずきが冗談を言う。両親の墓は、バス停から歩いて三十分以上もかかる。タクシーを使えば楽なのかもしれないが、シングルマザーである美佐子にとって、タクシーを使うことの経済的負担は大きい。
年一回の墓参りとはいえ、贅沢する余裕はない。普通列車とバスを乗り継いで日帰りにするために、アパートを早朝に出て、夜の最終便で帰るのがいつものパターンだ。
両親が自殺したのはゆずきが産まれる前だ。ゆずきは祖父母を写真でしか知らない。それでも、ゆずきに寂しい思いをさせないように、墓参りには欠かさず連れていき、両親の思い出を伝え続けた。
素直なゆずきは話をよく聞き、いまでは、まるで生前の祖父母を知っているかのように話してくれる。
けど、この墓参りも十三回忌でひと区切りだ。そろそろ終わりにして、この町との縁を切らなくてはならない。過去を断ち切らないと、いつまでも同じ場所に立ち止まってしまいそうな気がする。
まるで、いつまでも変わらない、ゆずきの膝にある地図のように。
美佐子は気持ちを切り替えて、ゆずきに答える。
「さすがにお墓はないと思うけど、何ができるのかママも楽しみ」
「寂れていく一方なのに、変だね」
ゆずきは不思議そうな顔をした。雪はますます強くなっている。ゆずきの膝の上にある地図に雪がつもる。地図の記号が白く覆われていく。
「そういえば、三十年ぶりみたいね。三十年前といったら、私が生まれるずっと前。お母さんがまだ子供だった時代」
「えっ、何の話?」
「この雪だよ。三十年ぶりだって、さっきお母さんが言っていたじゃない」
ゆずきは軽く笑った。ゆずきが笑うと、膝の上にある地図も揺れて、積もっていた雪が足元に流れて小さな山を作る。
ゆずきの膝の上にある地図は、美佐子が持たせたものだ。
インターネットでなんでも検索できる時代。だが、美佐子にはゆずきに携帯電話を持たせるだけの余裕がない。代わりに紙の地図を持たせている。美佐子が子供のころに作られた古い地図だ。
ゆずきは、古い地図を貴重な資料と受け取っているようだ。扱いとしては、博物館の展示物と変わらない。
「あ、バス」
雪の向こう側に、二つのライトが見えた。タイヤに巻かれたチェーンが、ガチャガチャと中世の騎士たちのような音を鳴らしながら、雪をかきあげている。
美佐子はゆずきを立たせた。大きな車体が二人の視界を覆う。制帽を目深に被った乗務員が下りてくる。
ゆずきが地図を畳むと、雪がすっと落ちていった。ゆずきは寒さを堪えかねたのかすぐに乗り込もうとして、乗務員に止められた。
「えーっと、名古屋行きのお客様はいますか?」
「名古屋行き?」
「ええ、そうですが」
問い返す美佐子に、乗務員は不思議そうな顔をして返答した。
「ママ、間違えちゃったね」
ゆずきがいたずらっぽく笑う。
バスは細かな振動を残して走り去った。再び寂れた町が視界に広がる。
美佐子は思った。長距離夜行バスは二十年前に廃止されたはず。それが名古屋行に限って復活したのだろうか。最近の名古屋は元気とはいえ、あまりに唐突だ。
「ねえねえ、ママ。よく見るとあの場所も変わったね」
ゆずきが指す方向を見ると、小さな農産物センターがあった。美佐子の記憶では、この農産物センターは後継者がいないため、数年前に廃墟になっているはず。それが煌々と明かりがつき、真新しい建物になっている。
だれかが経営を引き継ぎ、新しく塗りなおしたのだろうか。
それにしても、いままでなぜ気が付かなかったのか。このバス停にきて十分はたっている。目に入るものは限られている。日が落ちて暗くなり、明かりがついたから目に入ったということだろうか。
しばらくして、またバスが来た。
前のバスと同じようにゆずきが乗ろうとして、また乗務員に止められた。
「広島行きです」
「また間違えちゃった」
ゆずきは軽く舌を出した。美佐子はバスの時刻表を見た。何度も見た。横から見ても斜めから見ても、地域巡回バスの時刻表しかない。
美佐子は出発しようとしている乗務員に尋ねた。
「すみません、本当に広島行きなのですか?」
「もちろんです。行先案内板を見てください」
乗務員はフロントガラスの上部を指した。確かに広島行きと書いてある。だが、どこか書体も車体も古めかしい。
「いまは何年ですか?」
「そんなの五年に決まっているじゃありませんか」
「それは令和ですか、平成ですか」
乗務員は笑った。話にならないと思ったのか、バスは走り去っていった。
「ねえねえ、ママ。あそこも変わっている」
美佐子は見たくなかった。だが、見るしかなかった。すると、先ほどまではたしかに道路だったところが畑になっている。ありえない変化だ。
美佐子はゆずきの体を抱きしめた。もしかしたら、二人して凍傷になりかけているのではないか。低体温症のせいで、認知障害が起こっているのではないか。
美佐子は必死に娘を抱きめした。そして体をさする。
「どうしたの、痛い」
「死ぬよりいいでしょ」
「そんな、大げさなこと言わないでよ」
「だって、だって……」
美佐子はバス停をぐるりと見渡した。雪が深くなるとともに景色が変わっていく。先ほどまで工事中だったビルは、いつの間にかに更地になっていた。農産物センターは新しくなる前の、先代の建物に化けた。
恐ろしい勢いで、時代をさかのぼっていく。それをゆずきは無邪気に楽しんでいる。二人はとんでもない世界に入り込んでいる。
これは地図だ。ゆずきに渡した地図の時代に遡ろうとしているのだ。地図の世界に引きづりこまれていく。
「ねえねえ、ママ……」
もうやめて。目をふさぎたかったが、不思議な力が美佐子の意思に抗う。ただ気が狂わないようにと、正気を保つのがが精一杯だった。
ふと気がつくと、地図が地面に落ちていた。深々と降り積もる雪は、またたくまに地図を埋めていく。地図が白く染まるともとに、町からビルが消えていく。過去に遡っていく。
「ねえママ、音が聞こえる」
美佐子は耳を澄ませた。何かが遠くから近づいてくる。これはエンジン音ではない。それよりもっと懐かしい音。
「あ、電車!」
灰色の雲に警笛が響いた。その警笛は雪のカーテンに乱反射し、美佐子の方向感覚を狂わせる。
「ここだよ、ここ」
ゆずきは正面を向いていた、。そこは、ずっと昔に駅があった場所。つまりいま二人が立つバス停だ。
一両しかないディーゼル車両は、雪をかき分けながら進み、二人の前にとまった。そこから老夫婦が下りてきた。
「あ、おじいちゃんとおばあちゃん」
美佐子は眼を疑った。そこにいるのは、まぎれもなく両親だった。両親はよく来てくれたね、とゆずきのことを抱き上げた。初めて会うはずなのに、その様子は、昔から慣れ親しんだ孫と祖父母の姿だった。
「美佐子や、いままでありがとう。もう十分に尽くしてくれたから」
母はそう言った。確かに耳に聞こえた。雪がさらに激しくなり、両親と電車をすっぽりと包み込んだ。両親は小さく手を振った。
それが合図のように、突如として雪がやんだ。
ゆずきは何事もなかったように、破れかかったバラックのベンチに座っている。疲れたのか、少し首を傾けている。
「寝たら風邪を引くよ」
美佐子が体を揺り動かすと、驚いたのように目を見開いた。
「ねえねえ、いまねえ、すごい夢を見たんだよ」
美佐子はバス停の周りを見た。古いビルはまだ建っている。農産物センターは閉鎖されたままだ。道路もちゃんと伸びている。
美佐子は気が付いた。いままで三十年前にタイムスリップしていたのだ。それは両親が孫に会うために。
「お母さんも少し夢を見ていたんだ。それは、大人のままで三十年前に戻る夢」
「へえ、大人になっても夢をみるんだ」
「この雪のせいかもね」
美佐子は綿毛のような雪を掬った。きっと、この結晶には不思議な力がある。まるで緞帳のように世界を覆いつくし、新しい世界を描く力が。
その力を利用して、両親がやってきたのだ。三十年ぶりの大雪と、ゆずきの手もとにある古い地図を通して。様々な要素が重なり合った、小さな奇跡。
小さなクラクションが聞こえてきた。二つのヘッドライトが近づいてくる。今度こそ間違いない。フロントガラスには、最寄り駅行の表示が輝いている。
ゆずきの手にある地図は、まるで力を使い果たしたかのように、濡れてクチャクシャになっていた。
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