【ショートミステリ】齊藤想『神の指紋』 [自作ショートショート]
本作は小説でもどうぞW選考委員会版用に書いて、応募しなかったボツ作品です。
このときのテーマは「神」でした。
マニアックな知識がひとつあると、ショートショートや掌編を書きやすいです。本作で使った知識は動物の指紋です。実はコアラの指紋は人間とそっくりだそうです。そこからショートミステリを書いてみました。
具体的な技法はこちらの無料ニュースレターで紹介します。次回は8/5発行です。
・基本的に月2回発行(5日、20日※こちらはバックナンバー)。
・新規登録の特典のアイデア発想のオリジナルシート(キーワード法、物語改造法)つき!
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『神の指紋』 齊藤 想
目の前にいる老刑事は、2種類の紙をテーブルの上に広げた。ひとつは白紙で、もうひとつの紙には、綺麗な楕円形がマトリョーシカのように重ねて描かれている。
ここは自分が園長を務める動物園の事務室だ。自分の城だ。なのに、なぜか目の前にいる老刑事に威圧されてしまう。
自分はテーブルの上に置いてある缶ジュースに手を伸ばそうとして、そのまま手をひっこめた。老刑事とペアを組む若い刑事が、素早く視線を飛ばしてくる。
遠くから来園客の声がした。家族連れだろうか。コアラ舎の前で、子どもたちがはしゃいでいる声が聞こえてくる。
動物園の経営は苦しい。コアラが少しでも子どもたちを呼んでくれたいいのだが。
老刑事は、外見上だけは、いかにも好々爺といった雰囲気で語り掛ける。
「この紙に描かれているのは、警察の世界では“神の指紋”と呼ばれている指紋です」
「神の指紋ですか?」
「ええ、そうです。いわば、こいつらは警察泣かせの指紋ですなあ」
これは取り調べではない。そう思っていても、刑事が目の前にいると緊張してしまう。
老刑事は白紙を少し前に出した。
「これは指紋がないひとの指紋です。世の中にはごくまれに指紋がない人間がいます。彼らはいくら素手でドアに触ろうとも、指紋が検出されることがありません。なにしろ、指紋がありませんからね」
「それはそうですよね」
自分が軽く笑うと、老刑事はもうひとつの紙を前に出してきた。何重にも楕円が描かれている紙だ。
「こちらは、傷ひとつない綺麗すぎる指紋です。指紋の照合には、傷とか分岐とか、そうした特徴を一定数以上確認する必要があります。ところが、この指紋は特徴がないために照合ができません。いわば、この2つは決して捕まることのない神の指紋なのです」
従業員がお茶を持ってきた。老刑事はお礼を言って口をつける。若い刑事の手は動かない。湯呑はテーブルの上に置かれたまま、湯気を立て続けている。
自分は唾を飲み込んだ。
「その神の指紋と、この私がどう関係するのですか。私は単なる動物園の園長です。犯罪に手を染めたことも、染めるつもりもありません」
老刑事はかぶりを振った。
「いやいや、それは分かっています。実はですねえ、この神の指紋が、最近発生した盗難事件で発見されたのです。もちろん被害者の家族のものではありません」
「それはそうでしょうね」
「さらに不思議なことに、これらの指紋は玄関のドア付近でしか発見されていません。ここから警察はひとつの推測を立てました。これらは偽の指紋ではないかと」
「偽の指紋?」
「ええそうです。警察の捜査をかく乱するために、あえて指紋を残したのです」
老刑事は、自分の反応を確かめるように、少し間を置いた。
「犯人たちは手袋をして完璧な指紋対策をしていたのでしょう。その上で、玄関にだけ神の指紋を残して、警察の捜査を攪乱させようとした。犯人たちは、丁寧にも室内で指紋を拭った跡まで残して、いかにも玄関だけ忘れたという偽装までしています」
「ちょっと待ってください。もし、犯人が神の指紋を持っていたとしても、リスクが高すぎます。神の指紋とはいえ、持ち主を特定されたら終わりじゃありませんか。照合はできなくても、有力な証拠にはなる」
「その通り。だが、犯人には指紋の持ち主を特定されない絶対的な自信があった。だからこそ、この犯行を実行した」
「まさか、そんなことはないでしょう」
自分が笑うと、老刑事は獲物を狙う野獣のような目つきになった。
「例えばですが、その指紋の持ち主が人間ではなかったらどうでしょう。霊長類を始めとして、樹上生活をする生物には指紋があります。中でも人間の指紋とまったく見分けがつかないのが、コアラです」
「コアラですか?」
「いくら警察とはいえ、コアラの指紋のデータベースはありません。それで、我々は試しとしてコアラの指紋を取りにきたのです。コアラの指紋が神の指紋と一致すれば、コアラが現場にいた証拠となる。コアラを密かに外に連れ出せる人間は限られますからね。この動物園のコアラは人気者ですし、大事な動物なので園長が直接飼育していると聞いています。犯罪捜査のため、ぜひともご協力いただけますよね」
老刑事の追及に、自分はひとことも喋ることができなかった。
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このときのテーマは「神」でした。
マニアックな知識がひとつあると、ショートショートや掌編を書きやすいです。本作で使った知識は動物の指紋です。実はコアラの指紋は人間とそっくりだそうです。そこからショートミステリを書いてみました。
具体的な技法はこちらの無料ニュースレターで紹介します。次回は8/5発行です。
・基本的に月2回発行(5日、20日※こちらはバックナンバー)。
・新規登録の特典のアイデア発想のオリジナルシート(キーワード法、物語改造法)つき!
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『神の指紋』 齊藤 想
目の前にいる老刑事は、2種類の紙をテーブルの上に広げた。ひとつは白紙で、もうひとつの紙には、綺麗な楕円形がマトリョーシカのように重ねて描かれている。
ここは自分が園長を務める動物園の事務室だ。自分の城だ。なのに、なぜか目の前にいる老刑事に威圧されてしまう。
自分はテーブルの上に置いてある缶ジュースに手を伸ばそうとして、そのまま手をひっこめた。老刑事とペアを組む若い刑事が、素早く視線を飛ばしてくる。
遠くから来園客の声がした。家族連れだろうか。コアラ舎の前で、子どもたちがはしゃいでいる声が聞こえてくる。
動物園の経営は苦しい。コアラが少しでも子どもたちを呼んでくれたいいのだが。
老刑事は、外見上だけは、いかにも好々爺といった雰囲気で語り掛ける。
「この紙に描かれているのは、警察の世界では“神の指紋”と呼ばれている指紋です」
「神の指紋ですか?」
「ええ、そうです。いわば、こいつらは警察泣かせの指紋ですなあ」
これは取り調べではない。そう思っていても、刑事が目の前にいると緊張してしまう。
老刑事は白紙を少し前に出した。
「これは指紋がないひとの指紋です。世の中にはごくまれに指紋がない人間がいます。彼らはいくら素手でドアに触ろうとも、指紋が検出されることがありません。なにしろ、指紋がありませんからね」
「それはそうですよね」
自分が軽く笑うと、老刑事はもうひとつの紙を前に出してきた。何重にも楕円が描かれている紙だ。
「こちらは、傷ひとつない綺麗すぎる指紋です。指紋の照合には、傷とか分岐とか、そうした特徴を一定数以上確認する必要があります。ところが、この指紋は特徴がないために照合ができません。いわば、この2つは決して捕まることのない神の指紋なのです」
従業員がお茶を持ってきた。老刑事はお礼を言って口をつける。若い刑事の手は動かない。湯呑はテーブルの上に置かれたまま、湯気を立て続けている。
自分は唾を飲み込んだ。
「その神の指紋と、この私がどう関係するのですか。私は単なる動物園の園長です。犯罪に手を染めたことも、染めるつもりもありません」
老刑事はかぶりを振った。
「いやいや、それは分かっています。実はですねえ、この神の指紋が、最近発生した盗難事件で発見されたのです。もちろん被害者の家族のものではありません」
「それはそうでしょうね」
「さらに不思議なことに、これらの指紋は玄関のドア付近でしか発見されていません。ここから警察はひとつの推測を立てました。これらは偽の指紋ではないかと」
「偽の指紋?」
「ええそうです。警察の捜査をかく乱するために、あえて指紋を残したのです」
老刑事は、自分の反応を確かめるように、少し間を置いた。
「犯人たちは手袋をして完璧な指紋対策をしていたのでしょう。その上で、玄関にだけ神の指紋を残して、警察の捜査を攪乱させようとした。犯人たちは、丁寧にも室内で指紋を拭った跡まで残して、いかにも玄関だけ忘れたという偽装までしています」
「ちょっと待ってください。もし、犯人が神の指紋を持っていたとしても、リスクが高すぎます。神の指紋とはいえ、持ち主を特定されたら終わりじゃありませんか。照合はできなくても、有力な証拠にはなる」
「その通り。だが、犯人には指紋の持ち主を特定されない絶対的な自信があった。だからこそ、この犯行を実行した」
「まさか、そんなことはないでしょう」
自分が笑うと、老刑事は獲物を狙う野獣のような目つきになった。
「例えばですが、その指紋の持ち主が人間ではなかったらどうでしょう。霊長類を始めとして、樹上生活をする生物には指紋があります。中でも人間の指紋とまったく見分けがつかないのが、コアラです」
「コアラですか?」
「いくら警察とはいえ、コアラの指紋のデータベースはありません。それで、我々は試しとしてコアラの指紋を取りにきたのです。コアラの指紋が神の指紋と一致すれば、コアラが現場にいた証拠となる。コアラを密かに外に連れ出せる人間は限られますからね。この動物園のコアラは人気者ですし、大事な動物なので園長が直接飼育していると聞いています。犯罪捜査のため、ぜひともご協力いただけますよね」
老刑事の追及に、自分はひとことも喋ることができなかった。
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