【児童文学】齊藤想『ししおどし』 [自作ショートショート]
これは「5分ごとにひらく恐怖のとびら 百物語」に応募した作品です。
テーマは5つから選ぶことができて(1憤怒・憎悪、2邪悪・悪意、34嘆き、不吉、5畏怖・恐れ)、本作では1憤怒・憎悪を選択しています。
―――――
『ししおどし』 齊藤 想
とにかく郷田哲也は急いでいた。
郷田は社会人一年目の新人サラリーマン。仕事は街の不動産屋。初めて大きな仕事をまかされて気持ちははずむが、相手との約束の日に寝ぼうする大失態をしてしまった。
相手は、昔ながらの大邸宅に独りで住む渡辺権太という老人だ。渡辺老人は相続にそなえて自宅を売却し、老人ホームに入りたいという希望を持っている。
郷田が渡辺老人の担当になったのは、とにかく渡辺老人の話が長いからだ。若いころは科学の教師をしていたらしく、ウンチクを語りだしたら止まらない。
つまり、厄介者を押しつけられたのだ。
そうしたおっくうさが、目覚まし時計のセットを忘れた原因かもしれない。
このままでは約束の時間に遅れてしまう。
郷田が一分でスーツに着替えると、外に出て、自転車を全力でこいだ。
郷田は近道をするために、いつもは通らないせまい道に自転車を向ける。道の中ほどによたよた歩く小太りのおばさんがいた。
ギリギリ横を抜けるかな。そう思って、ペダルに力を込めたときだ。
おばさんは貧血になったかのように、ふらついた。自転車のハンドルがおばさんのお腹にぶつかる。柔らかい中に、固い感触があった。
「だ、大丈夫ですか」
郷田は自転車をおりて声をかけた。おばさんはお腹を押さえて苦しんでいる。ケガはなさそうだ。
「ごめんなさい。ぼく、急いでいるので、何かあったらここに連絡してください」
郷田は名刺を渡すと、急いでその場を立ち去った。
約束の時間にはギリギリ間にあった。
渡辺老人の家の前で息をととのえ、汗をふき、何事もなかったのように門をくぐる。
「おお、よく来たな。いつも時間とおりで、たいしたものだ」
渡辺老人は玄関で待っていた。
「今日も渡辺様のお話を聞きたくて」
おせじも慣れたものだ。
渡辺老人の家は整理が進んでいるようで、大きな家財道具は運び出され、渡辺老人自慢の骨とう品もきれいに無くなっている。
部屋が広くなったせいか、庭にある”ししおどし”がよくひびく。
”ししおどし”とは、立派な庭によく置いてある装置で、竹の筒に水が流れこみ、重くなると竹の筒がお辞儀をして、戻るときにカラーンという音をだす仕組みになっている。
「このししおどしは、特別なしかけがしてあってな。テコの原理の応用なのだが……」
郷田は、渡辺老人の話を聞いているうちに、自転車でぶつかったおばさんのことをすっかり忘れていた。おばさんに渡したのはイザというときのために作ってある偽名刺で、名前も電話番号もデタラメだ。
その場さえしのげればいい。いままでもこうして上手く切り抜けてきた。
渡辺老人は、急に郷田の手首をつかんできた。老人の手は氷のように冷たかった。
「つまり、テコの原理を理解すれば、弱い力でも強い力を押さえつけることができる。例えばこのように」
老人の細腕が、軽く添えられているだけななのに、郷田は一歩も動けない。
「すごいですねえ」
郷田は話の調子を合わせたつもりだが、急に渡辺老人の顔がけわしくなった。
「私の娘は長らく子供ができなくてなあ、ようやく妊娠したと思ったら、暴走してきた自転車にお腹をぶつけられた。おそらく流産するだろう。ぶつけられた相手は、山田太郎と書かれた名刺を残して立ちさった」
「そ、それはひどい話ですね」
郷田の首筋から冷や汗がにじみでる。郷田がおばさんに渡した偽名刺と同じ名前だ。
「テコの原理はすごい。小さな力が何倍にもなる。人の恨みも同じだ。ひどいことをされれば、恨みは何倍にも大きくなる」
老人の手が郷田の首に伸びる。このままでは殺される。郷田は慌てて家から飛びだすと、自転車にまたがり、全力で駆けだした。
不動産屋の社長は、夫婦で社用車を運転していた。
「あなたも悪い人ねえ。渡辺老人が急死したことを郷田君に伝えないのだから」
「いやいや、ついうっかりな。けど、郷田君も渡辺老人の家がもぬけのからで驚いているころだろう。もしかして、渡辺老人の幽霊と長話をしているかも」
「やあねえ、そんなことがあるわけがないじゃない。この令和の時代に」
そのとき、見通しの悪いせまい道から、自転車が飛びだしてきた。
一瞬のあと、激しい衝突音。
―――――
この作品を題材として、創作に役立つミニ知識をメルマガで公開しています。
無料ですので、ぜひとも登録を!
【サイトーマガジン】
https://www.arasuji.com/mailmagazine/saitomagazine/
テーマは5つから選ぶことができて(1憤怒・憎悪、2邪悪・悪意、34嘆き、不吉、5畏怖・恐れ)、本作では1憤怒・憎悪を選択しています。
―――――
『ししおどし』 齊藤 想
とにかく郷田哲也は急いでいた。
郷田は社会人一年目の新人サラリーマン。仕事は街の不動産屋。初めて大きな仕事をまかされて気持ちははずむが、相手との約束の日に寝ぼうする大失態をしてしまった。
相手は、昔ながらの大邸宅に独りで住む渡辺権太という老人だ。渡辺老人は相続にそなえて自宅を売却し、老人ホームに入りたいという希望を持っている。
郷田が渡辺老人の担当になったのは、とにかく渡辺老人の話が長いからだ。若いころは科学の教師をしていたらしく、ウンチクを語りだしたら止まらない。
つまり、厄介者を押しつけられたのだ。
そうしたおっくうさが、目覚まし時計のセットを忘れた原因かもしれない。
このままでは約束の時間に遅れてしまう。
郷田が一分でスーツに着替えると、外に出て、自転車を全力でこいだ。
郷田は近道をするために、いつもは通らないせまい道に自転車を向ける。道の中ほどによたよた歩く小太りのおばさんがいた。
ギリギリ横を抜けるかな。そう思って、ペダルに力を込めたときだ。
おばさんは貧血になったかのように、ふらついた。自転車のハンドルがおばさんのお腹にぶつかる。柔らかい中に、固い感触があった。
「だ、大丈夫ですか」
郷田は自転車をおりて声をかけた。おばさんはお腹を押さえて苦しんでいる。ケガはなさそうだ。
「ごめんなさい。ぼく、急いでいるので、何かあったらここに連絡してください」
郷田は名刺を渡すと、急いでその場を立ち去った。
約束の時間にはギリギリ間にあった。
渡辺老人の家の前で息をととのえ、汗をふき、何事もなかったのように門をくぐる。
「おお、よく来たな。いつも時間とおりで、たいしたものだ」
渡辺老人は玄関で待っていた。
「今日も渡辺様のお話を聞きたくて」
おせじも慣れたものだ。
渡辺老人の家は整理が進んでいるようで、大きな家財道具は運び出され、渡辺老人自慢の骨とう品もきれいに無くなっている。
部屋が広くなったせいか、庭にある”ししおどし”がよくひびく。
”ししおどし”とは、立派な庭によく置いてある装置で、竹の筒に水が流れこみ、重くなると竹の筒がお辞儀をして、戻るときにカラーンという音をだす仕組みになっている。
「このししおどしは、特別なしかけがしてあってな。テコの原理の応用なのだが……」
郷田は、渡辺老人の話を聞いているうちに、自転車でぶつかったおばさんのことをすっかり忘れていた。おばさんに渡したのはイザというときのために作ってある偽名刺で、名前も電話番号もデタラメだ。
その場さえしのげればいい。いままでもこうして上手く切り抜けてきた。
渡辺老人は、急に郷田の手首をつかんできた。老人の手は氷のように冷たかった。
「つまり、テコの原理を理解すれば、弱い力でも強い力を押さえつけることができる。例えばこのように」
老人の細腕が、軽く添えられているだけななのに、郷田は一歩も動けない。
「すごいですねえ」
郷田は話の調子を合わせたつもりだが、急に渡辺老人の顔がけわしくなった。
「私の娘は長らく子供ができなくてなあ、ようやく妊娠したと思ったら、暴走してきた自転車にお腹をぶつけられた。おそらく流産するだろう。ぶつけられた相手は、山田太郎と書かれた名刺を残して立ちさった」
「そ、それはひどい話ですね」
郷田の首筋から冷や汗がにじみでる。郷田がおばさんに渡した偽名刺と同じ名前だ。
「テコの原理はすごい。小さな力が何倍にもなる。人の恨みも同じだ。ひどいことをされれば、恨みは何倍にも大きくなる」
老人の手が郷田の首に伸びる。このままでは殺される。郷田は慌てて家から飛びだすと、自転車にまたがり、全力で駆けだした。
不動産屋の社長は、夫婦で社用車を運転していた。
「あなたも悪い人ねえ。渡辺老人が急死したことを郷田君に伝えないのだから」
「いやいや、ついうっかりな。けど、郷田君も渡辺老人の家がもぬけのからで驚いているころだろう。もしかして、渡辺老人の幽霊と長話をしているかも」
「やあねえ、そんなことがあるわけがないじゃない。この令和の時代に」
そのとき、見通しの悪いせまい道から、自転車が飛びだしてきた。
一瞬のあと、激しい衝突音。
―――――
この作品を題材として、創作に役立つミニ知識をメルマガで公開しています。
無料ですので、ぜひとも登録を!
【サイトーマガジン】
https://www.arasuji.com/mailmagazine/saitomagazine/
コメント 0